第15話 もえちゃん(後編)
そして、もえちゃんは今に至る。
◆もえちゃんの戦い◆
翌日、母の梢はもえちゃんと二人きりの夕食を済ませると、親宿のお店に向かった。
もえちゃんはいつもの通りに、シンクの中の洗い桶に下げた二人分の夕食の食器を全て洗った。食器はシンクの横に乾いた布巾を引いて重ねた。
お婆ちゃんに教えてもらった通りである。
そして、居間と寝室の掃除もやった。
「これで、よしと」
そこまでやったら、午後7時半になってしまっていた。
「そうか、お布団を敷かないと」
小さなもえちゃんには、押入れに片付けられた布団を敷くのは大変であった。頑張ってお母さんと自分の分のお布団を敷いた時には、午後8時半近かった。
「あ~、疲れた。もう、寝ないと」
もえちゃんは歯を磨き、パジャマに着替えた。戸締りは既に確認済みである。
さっきまでは、家の手伝いをそていたからすっかり忘れていたが、いざ居間の電気を消そうとすると、夜と言う恐怖が襲ってきた。
「電気、消さなきゃ」
もえちゃんの住んでいるアパートの間取りはニ間である。一つは居間で、もう一つは買ったばかりのもえちゃんの机が置いてある寝室のみである。
もえちゃんは、寝室への引き戸を一杯に開けると、思い切って居間の電気を消した。そして、急いで寝室に入る。
お婆ちゃんの写真が自分を見ている。
「お婆ちゃん、大丈夫。もえ一人でも怖くないよ」
そう呟いて、寝室の電気を豆電球だけにすると、布団に潜り込んだ。
足が震えてくる。風が窓ガラスを叩く音が耳に響いて来る。
「あ~あ」
何度も声を出しそうになった。その度に
「怖くない、怖くない」と目を閉じて何度も自分に言い聞かせた。
そうしている内に、いつの間にか眠っていた。
目が覚めると、お母さんが隣で眠っていた。寝息を立ててぐっすりと眠っている。
「疲れてるんだ」
もえちゃんは、お母さんを起こさない様にそっと、布団を出ると学校に行く準備をした。
朝ご飯はトースターで食パンを焼いて、大好きなイチゴジャムで食べた。
「行って来ます」
そっと、眠っているお母さんに声を掛けると家を出た。
今日が回収日である燃えるゴミを持つことも忘れていない。
◆母親失格◆
「いけない」
梢が朝起きて隣の布団を除くと、もえちゃんは既にいなかった。
時計を見ると8時を過ぎている。
慌てて、居間に行ったが当然、もえちゃんは学校に行った後であった。
「何も食べないで行ったのかしら?」
そう思ったが、深夜に帰って来た時に乾いた布巾の上に置いてあった食器が片付けられている。その替わりに綺麗に洗われた、お皿が1枚とマグカップが1つ置いてある。
食パンも2枚減っている。
「もえが、自分で?」
昨日お店で少し酔ってしまったとはいえ、確かに昨日の夕食の食器が洗われていた物が、シンクに置いてあった。そして、今。
酔っていない今であればはっきりと分る。
「あの子が洗ってくれたんだ」
と言うことを。
ゴミ箱も綺麗になって、新しい袋に取り替えてある。
部屋も綺麗である。
「そう、そう言えば布団どうしたのかしら」
昨日はうっかりと、習慣で押入れの中にしまってから出かけてしまっていた。
「あっ、自分で敷いたんだ。私の分まで・・・」
小さなもえちゃんが一生懸命に押入れから布団を出している姿を想像すると、梢は涙が出てきた。
自分の知らない内に、そんなことまで出来るようになっていたのだ。
梢は子供のもえちゃんに気を使わせていたのだと気付いた。
「最低の母親だ・・・。私にとって、誰よりも大切なのはあの子なのに・・・」
子供のことを何も知らない自分に腹が立ってきた。
「はっきりさせないと」
梢は、今日は布団を押入れに仕舞わず、畳んで部屋の隅に置いた。もえちゃんが敷き易いようにである。
晩ご飯は、もえちゃんの好きなハンバーグと玉子焼きのお弁当を作った。そして、もえちゃんに手紙を書いた。
(きょうは、でかけます。
ごめんなさい。
もえのすきなおべんとうをつくりました。
あしたからは、まいにちいっしょにばんごはんをたべようね)
梢は2年前から親宿のスナックで働く様になっていた。その時は、取り合えず生活が出来るだけのお金が稼げる仕事が見つかるまでの一次凌ぎのつもりであった。
しかし、いざ仕事を始めると、仕事をしながら職を見つけるのは難しかった。
そのまま働き続けていると、今年の年明けに、経営しているママからこの3月でスナックを止めるのでそのまま引き継がせてくれると言う話を頂いた。
梢は悩んだ末に店のオーナーとなることを決意した。
丁度その頃、毎日の様に梢の元に現れるお客がいた。その男性とは、気が合い会話が楽しかった。
引き継ぐにあたっても色々と相談にも乗ってくれた。
梢は次第に仲良くなっていき、客としてではなく個人的にお付き合いをする仲になっていた。少なくても梢はそう思っていた。
男性は、30台半ばのイベント関係の会社を経営しいた。会社は上手く行っているとのことで、毎週末に梢を高級料理店に連れて行ってくれた。
誕生日にはブランドのバッグをプレゼントしてくれた。
梢はその男性に、子供がいると言うことを話せずにいた。正直言うと、そのことが障害になることを恐れていたからであった。
今日、梢は決意をしてその男性と会った。
そして、全てを話した。男性は、今の梢を気遣ってはくれたが、そこまでだった。
結局、そこまでの人であった。しかし、それも当然のことである。予想外の一人の人間が現れたわけである。先々を考えて慎重な行動になったのかもしれない。
或いは、梢が思っている程の気持ちでは無かったのかもしれない。
しかし、結果は一つである。
結局、どんな事があっても、そして、どんな時でも常に自分の傍にいて、味方をしてくれるのが誰であるのかを思い知らされた気がした。
決して、梢は疎かにするつもりはなかった。極力変わらず接しようとしていた。ただ、自分の為の時間を、少しもらいたかっただけであった。
もしかすると、新しい父親になってくれるかもと言う淡い期待もあった。
でも今考えると、それは自分の為の都合の良い言い訳であったような気がする。
何より、
(あの子の気持ちを知りもしないのに)
梢はそう思った。
これからはずっと、あの子、もえちゃんのことだけをを考えよう。
そう決意するのであった。
◆遊園地◆
・・・
「結局は、その男性と上手く行かなかったんですね」
帯人の問いに、ノシさんが応える。
「ああ、その男性も別に悪気があって付き合っていた訳じゃないんだ。気持ちの有処が
違っていただけなんだろうね」
「そういうことになってしまいますね」
・・・
今日のもえちゃんは、さらに早く起きた。
何故かと言うと、昨日の晩御飯のお弁当がとても美味しかったので、お母さんの朝食を作ってあげようと思ったからである。
初めての調理である。お婆ちゃんも火を使うことは教えてくれなかった。でも、何度も傍で見ていたから大丈夫だと思った。
テーブルの上に皿を2枚ずつと、カップを1つずつ置いた。
1枚のお皿には、食パンを2枚ずつ置いた。そして、もう1枚のお皿の上に乗る物は、これから作るのである。
冷蔵庫から玉子を2個と、ベーコンを出した。
ガスコンロの前に椅子を置き、その上に上る。
フライパンに油を少しひいてから、ガスコンロに火を付けた。
緊張と、ワクワク感で体が硬くなっていく。
ベーコンを乗せるとパチパチと激しい音が鳴り出した。
「よし、玉子を割ってと」
もえちゃんが玉子を割ろうとした時に、引き戸の音がした。
(あっ、お母さんが起きた)
もえちゃんは、引き戸の方を振り向いた。
梢が眠りから覚めたのは、もえちゃんが調理を始めた時であった。時計を見ると7時であった。今朝、お店から帰って来たのも遅かったのだが、ちゃんと起きれたと安心した。今日こそはもえちゃんの朝ごはんを作らなければならない。
「ちゃんと、起きれた」
梢は時計を見て安心した。そして、隣の布団を見ると空である。
「もう、起きたのかしら?」
梢は急いで起き上がり、居間への引き戸を開けた時であった。
台所の方から大きな音が聞こえた。
もえちゃんが、梢に”おはよう”と声を掛けようと振り向いた時に、フライパンの取っ手に服が引っ掛ってしまったのである。
炒めたベーコンが飛んで、フライパンが大きな音を立て床に落ちる。もえちゃんが、それを避け様として椅子から落ちる。
梢は驚いて大きな声を出して、居間に飛び出すと、台所の前でもえちゃんが転んでいた。フライパンは床でひっくり返り、玉子は床で無残に割れている。
梢は慌てて近寄ると、コンロの火を消し、もえちゃんを抱き起こした。
「大丈夫、怪我はない」
「うん。ごめんなさい」
(良かった)
梢は安心した。
「もえちゃん、火を一人で使っちゃ駄目よ!火事になって、焼けどして・・・」
梢の眼から涙が零れる。
「ごめんなさい。ごめんなさい・・・」
もえちゃんは何度も謝った。目を強く閉じて謝った。
せっかく優しくなったお母さんがまた戻らない様にと。
何度も、何度も・・・。
「もえちゃん、大丈夫よ。そんなに謝らなくたって。分ってくれればいいの。お母さんは心配なだけなの」
冷静になった梢の眼には、部屋の中にもえちゃんの靴下や、パンツやズボンが干してあるのに気付いた。
「ねえ、もえちゃん」
「食器は、もえちゃんが洗ってくれたの?」
「うん」
「お掃除も」
「うん」
「お洗濯も」
「うん。お婆ちゃんとずっと一緒にやってたから出来るよ」
自信満々のもえちゃんである。梢はずっとお婆ちゃんが一人でやってくれているものだと思っていた。
「トイレも多分掃除出来るよ。やってもいい?」
「うん、有難う。でも、お母さんにも少し残しといてくれると嬉しいな」
梢が優しく微笑むと、
「うん」
もえちゃんも明るく頷いた。
その時梢は、はっと気が付くことがあった。明後日は日曜日である。
「ねえ、もえちゃん。明後日さあ一緒に遊園地に行こうか」
「ホント!」
「うん、もちろん」
「うん~、でも忘れない?」
「大丈夫、もう絶対に、絶対に忘れないから」
日曜日、梢の作ったお弁当をを持って、朝早くから二人で遊園地に出かけた。
◆料理解禁近し◆
帯人の目頭は熱くなっていた。熱い滴が流れ落ちるのを感じ、慌てて手で押さえた。
「詳しいんですね」
「ここで八百屋をやっているとね、いろんなことが分るんだよ」
帯人はそれだけではないと感じていた。
「ノシさんはいつからここで八百屋さんをやってるのですか?」
「もえちゃんが生まれて半年後位かな」
と応えた。
月日の基準がもえちゃんであることに帯人は頷いてしまった。
(特別なんだな・・・)
帯人は次の滴が零れ落ちない様に、上向き加減になっていた。
そこに、もえちゃんが走って戻って来た。
帯人は潤んだ瞳の視線を遠くの空に向けたまま、もえちゃんの頭を撫でた。
「大変だったんだね」
そう一言告げると去って行った。
不思議に思ったもえちゃんは、ノシさんに聞いてみた。
「ノシさん、帯人はどうしたの」
「さあね~、もえちゃんの可愛さに気付いて感動したのかな?」
「んっ?」
首を傾げる。
(帯人君、この数ヶ月で随分変わったな)
ノシさんは帯人の後ろ姿を見つめ、そう思った。
「ところで、もえちゃんはどうしたんだい?」
ノシさんのもえちゃんを見つめる目は、いつも通り特別に嬉そうである。
「うん、お母さんに料理を教わるの。ナポリタンとサラダを作るの」
もえちゃんは、嬉しそうである。
「何をご利用ですか?」
ノシさんは八百屋の店主に戻って、お客様の応対をする。
「え~とね~、玉葱と、ピーマンと・・・・」
ノシさんの問いに、もえちゃんは真剣な目付きで野菜を選ぶのであった。
<つづく>
第15話この部で終了です。