三話 ファーストトラブル
会社の喧騒が耳に戻ってくる。
周囲にはあくせくと働く同僚の姿。
キーボードを叩く音。
壊れかけのコピー機が発する電子音。
俺は椅子の背もたれにもたれかかって、隣席で熱心に仕事に励む新人の横顔をこっそり眺める。
その暇つぶしは嘲笑と諦観の代わりである。
────こいつは何を熱心に頑張ってるんだか。
五年、十年頑張ったってその熱心さが評価されるとは限らない。一握りの成功の下には敗戦した者たちの死体がうずたかく積み上げられているのだ。
俺もその一つ。
死体だ。夢も希望も情熱もない、朽ちかけた死体だ。
「あーつまんねえの」
俺も高校の時から頑張れば、もっとマシになれたかもな。
不格好なスーツの皺を軽く払って、腕を組み、ゆっくりと体を倒す。
しばらく眠ろう。
眠ればこのナイーブな心も少しは安らぐはずだ。
後悔なんてしてももう遅い。
俺ができることは────。
「おい、起きろテメェ! 寝てんじゃねえぞ、お゛お゛!?」
「ふがっ」
肩を乱暴に揺すられて、俺の意識は急速に現実へ引き戻される。
パソコンも、同僚も、コーヒーも机もない。有るのは雑な作りの木の長机に、まるで世紀末の雰囲気を煮詰めたようなプレートメイルと鎧を着こんだ屈強な男たち。
酒気が一斉に俺の鼻の中へ飛び込んできて暴れる。
周囲の男女が楽しそうに酒を飲み交わし、食事をしていることから、ここが酒場だと分かるのに数十秒かかった。
「あぁ~……えっと、どうしました?」
俺の肩を掴むスキンヘッドの男を刺激しないよう丁寧な言葉遣いを心がけながら、現状の把握に努めようとする。
ここはどこだろう。
たしか俺は会社の屋上から飛び下りて……目が覚めたらこんなところに。いや、違う。俺の知っている日本にこんなところはないし、まず自殺したのは真実なのでここは死後の世界。
────異世界ではないだろうか。
それに体が違う。目元に垂れる前髪の色が違う。
老化によってパサついた肌ではなく、瑞々しさが宿っている。
服はいつもの着古したスーツではなく、新調された柔らかいシャツだ。
テーブルに置かれたガラスのコップを見た。
そこには金髪の美男子が映っているではないか。
「これが……俺……?」
生前のやぼったい顔ではない。
鼻筋はすらりと伸び、幼さを残しながらも精悍な顔立ち。首筋の脂肪もさっぱりなくなり、骨張った指先はとても綺麗だ。
どれだけチートを持とうともどうにもならない容姿の美醜。それが早速片付いたことに俺は嬉しい気持ちでいっぱいだった。
「おいきいてんのかてめえ! この街で見ねえ顔だしよ、新入りだろォ? 新入りなら当然、ここのボスである俺に挨拶に来るべきだろうがァ」
「こんにちは」
「ああはい、こんにちは…………じゃねえええええ! 挨拶ってのは金だよ金! そんな言葉だけじゃなくてよぉ、誠意が必要なんだぜぇ!?」
「ンこんにちはッッ!!!」
「迫力高めても誠意にはならねえよ! なめてンのかてめえ!!」
スキンヘッド男はものすごい剣幕で唾を飛ばしてくる。
厄介な輩に絡まれたなと自分の不幸を嘆きながらも、けして悪態を吐くことはなかった。
なんせ俺には余裕があった。彼をいつでも倒せるという確たる自信があったのだ。
転生。そしてチート。
いつの間にか頭に叩き込まれていたチートの内容が、俺に勇気と力を与えてくれている。
『優れた運命』
豪運を発揮する能力。運命は俺に都合よく回っていく。
『深淵覗き』
相手の能力や素質を数値化して見れる能力だ。俗にいう鑑定だろう。
『無限の果てに』
経験値チート&レベル限界突破。弱いはずがない。
「ああ、なめてるとも。相手との力量差がわからないおっさんをなめずして誰をなめる?」
「ガキは飴でも舐めてろ!」
「おつむも足りないか。やれやれ」
きまった……!
決めゼリフはバッチリだ。
これで相手のスキンヘッド男は怒りに身を任せ、俺に殴りかかってくるだろう。それを華麗にかわし、再起できないようこてんぱんにする。
まさに天の配剤。チートの使いどころだ。
「ぐ、ググ……貴様ァ……!」
「ほうら、どうした、かかってこいよ。いや、無理か。お前みたいな雑魚じゃな」
スタートは珍しくも赤ん坊からではなかったが、これはこれでアリだ。
転生ものではありふれている、悪役で端役の男がちょっかいをかけてくるイベント。チュートリアルのようなもの。
本来なら女の子の一人や二人助けを求めていても良い状況だが、まあそこは妥協しよう。
今は、目の前の男をどう調理してやるかが肝要なのだ。
「ハッハハハハハハ! 腰抜けめ、威勢はどうした威勢は! 早くかかってこいよスキンヘッドモブ!」
「てんめっ、言わせておけば!」
とうとう男が俺の想像通りの動きで襲いかかってきた。
右ストレート。一直線。
「ふっ」
あまりに予想通りだったため、俺の口から小さな笑いが吹き出た。
拳が向かってくる────。
俺はそれを華麗に受け流し、拳の力を利用した後ろ回し蹴りで相手の顎を弾いた。
はず。
だというのに、俺の視界は涙で滲んで、木造の茶色にすすけた天井を見つめている。
鼻頭が尋常じゃないほど痛かった。
鼻水というには重さがある、色にして真っ赤な液体が鼻の穴から唇へ流れていた。
湯だった頭に冷水を叩き込まれたような、不快な痺れが俺の脳天から足先までを駆け回っている。
なんだ。何が起こったのだ。
「あの、大丈夫でしょうか」
滲んだ視界に明るい色が動いた。
可愛らしく、鈴のような。
どこからどう聴いても女の子の声。
若さのある声。
遠慮がちに差し出されたのは、刺繍のされた布だった。
「おいアイリス、そんなやつほっといていこーぜ」
「ダメだよネーティ、たくさん血が出てるし、放っておけないよ」
「ちぇ。お前のお人好しは昔からなおんねーなー。ほら、あんた、起きろよ」
優しく顔を拭かれながら、乱暴な手つきで体を起こされる。そこでようやく状況を理解できた。
心配そうに俺を覗き込む小柄な少女と、身軽そうな風体のやんちゃそうな少女。
この二人が倒れている俺を救ってくれて、そして俺を倒した男は当然ながら奴しかいないのである。
「ギャッッハハハハハハハハ! おいおい坊主、一発でノックダウンかよ、もうちっと根性見せてくれやぁ」
肩を震わせ、腹をおさえて絶賛大爆笑中のスキンヘッド男。その純然たる事実は俺のプライドを深く傷つけた。
「て、テメぇ……!」
許さない。許してなるものか。
口に残る鉄の味。
それは敗北の味であり、反撃の灯火である。
「やめなってあんた、一部始終見てたけどアイツのパンチ全く反応できてなかったぞ!?」
肩をおさえて止めたのは、ネーティと呼ばれた少女。
強気な口調で俺をたしなめる。
だが、負けた事実を、情けない事実を列挙されたって冷静になれるわけがない。思い知らさなければ。じゃなきゃ俺が得たチートが廃ってしまう。
「あっ」
右肩をおさえていた指を振り払い、今度は俺の方から突貫する。
スキンヘッドの男は先程とはうって変わり、自信満々の構えで様子を見ていた。こいつは大したことがないとわかった途端、自ら攻めるリスクを取る必要はないと考えたのだろう。
男の肩がぶれる。そこで俺は二点、失策を悟った。
一つはチートを使わなかったこと。あまりの怒りに相手の能力を覗くことを忘れてしまっていた。
もう一つは状況把握を怠ったこと。
奇しくも一方が怒りで突貫し、相手は余裕綽々で受けるという状況は、さっきの俺とまるで真逆じゃないか。
まるで走馬灯のようによぎった冷静な思考は、男が放った拳の直撃によって一気に吹き飛んだ。
そこから先、記憶がない。
俺は気絶したのだろう。