一話 運命の分かれ道
俺の人生は最悪だった。
金もない、高い志もない。目標や夢すらないんだから、勉強にも身が入らず流されるように生きてきた。
目の前のことが大事だった。当然だ、足元が崖っぷちじゃあろくに歩けはしない。目先のことだけを考えてきた。結局入社できたのはブラックな会社のみ。
「マジでふざけんなってな」
屋上の柵に手をついて、涼しい夜風に体を浸す。
自分がダメな人間であることは理解してる。だが、それでも俺は努力してきた。ダメ人間なりに動いて生きてきたっていうのに、世の中は俺みたいな奴は受け入れてくれなかったようだ。
ふざけんな、クソが。
むかつく、ムカつく、ムカツク!
俺は鞄から一冊の本を取り出す。表紙には可愛い女の子が描かれ、タイトルには異世界転生という文字が大々的に映し出されている。
これはいわゆるラノベというものだ。
少し前まではオタクだけが持っている卑猥なものだとかそういう偏見じみたことが流布されていたのだが、最近ではそういう思考や世論も鳴りをひそめ、徐々に受け入れられてきている文学の一ジャンルである。
内容は名作から凡作まで様々。
俺が持っているラノベは数ある中でも凡作と評される────そんな他愛ないものであるが、どうも社会に疲れきった俺には強くその中身が響いたらしい。
いつの間にか転生、という二文字が頭のなかをグルグルと回っていた。
社会の不満、上司への不満、現状への不満。
それら全てが、異世界に行けば解決する。
そう盲信するほどに。
「246ページ……」
俺のお気に入りのページだ。
好きな言葉が書かれている。
『俺は異世界に来て変われたんだ、現代に未練はない』
『転生させてくれてありがとう、女神様! あんたのおかげで俺は可愛い嫁を四人も手にいれたんだ!』
『俺みたいなニートでも、こんなに幸せになれるんだ!!』
「ククッ……」
ニートが異世界に転生して、チートで無双して、可愛い女の子を救って、モテて、ハーレムを築き、幸せに暮らす。
本の中の彼は変わったのだ。ニートでコミュニケーション能力のなかった彼が。いじめられっ子であった彼が!
「なら、俺でも変えれるよな」
柵に足をかける。遺書は書かない。
マスコミよ、俺の死因に変な妄想を付け加えたいなら勝手にしておけ。
だけどラノベが原因だなんて吹聴はされたくないな……。
後悔や未練もほんの少し程度ならあるが、始まるきらびやかな異世界生活を想えばそんなの些事にすぎない。
「飛ぶぞ飛ぶぞ~。よし、よし……よし!」
ゆっくり下を見る。
赤い車のテールランプが、街灯に照らされた道路の上を滑っていく。つんと沁みる感覚が鼻の奥を突いた。
「なんで飛ばないんだよ俺」
自分を叱咤する。
「飛べよ、自分を変えたいんだろ!?」
震える膝と冷えた腹を押さえた。
「自分を変えろ真人! お前なら飛べる!」
「もっといい方法があるんじゃないかのう」
そして最後の鼓舞をしたちょうどその時、背後から知らない声が聞こえてきた。
俺は後ろ手に柵を持っていた力を緩め、屋上側に体を向ける。そこには清掃員らしい、地味な格好をした初老の男性が立っていた。
「あ、……あんた誰だよ」
「わし? ここの清掃員。ほら、モップ持っとるじゃろ?」
そう言って清掃員らしき男性は、手に持ったモップをひらひらと見せびらかす。
「死ぬのはイカン、イカンよ若者」
「な、なんだよ……あんたに何がわかる」
「解るよ。少なくともお主が会社にいた間はな。日々必死に働いているふりをして、真面目に取り組んでいない。そんなあんたをわしはよく知っている」
「なんだと!?」
俺はすぐに目の前の爺さんへ罵詈雑言を吐き捨てようとした。だが、疲れきっている俺はそうやって怒鳴ることもなんだか無駄なことのように思えてきて、怒りはすぐに悲観へと変わった。
「それならわかるだろ爺さん。俺が自殺をするのは、俺がこの世界に適応できなかったからだ。この地球という惑星、日本という国は俺の性に合わなかったらしい。だから死ぬんだよ」
「ホッホッホ」
爺さんは俺の告解を聞いて、否定とも肯定ともとれぬ食えない笑みをして見せた。
「お主の言い分。性に合わぬというから環境を変える────それは正しい選択じゃろうが、そのさきに待つ新たな世界がお主にとって都合がいいとは限らんぞ?」
「いい世界かも知れないだろうが」
「いい世界になるかどうかはお主の努力次第じゃよ。自らが変われば、おのずと周りの景色も変わるじゃろうて。それを怠れば、きっとまた繰り返すだけじゃ」
「じゃあ変わってやるよ。変えてみせる」
「その意気があるならば……若者よ。飛ぶべきではない。お主が生まれた世界はこの地球なのだから」
そこまで言われて俺はようやく気がついた。
ああそうか、この爺さんは目の前で飛び降り自殺してほしくないんだ。偶然俺が柵を越えた瞬間を見たからつい声をかけてしまったものの、死体の第一発見者にはなりたくない。そんなところだろう。
だから都合のいいことを言って、俺を引き留めようとしてる。
はは。そうか、そうか。
ようやく決心がついた。
「清掃員が、しゃしゃり出るなよ。これは俺が決めたことなんだ」
「お主を案じておるのだ。しゃしゃりも出る」
「異世界には俺を待つ女の子がたくさんいるんだ。だからさ、あんたの言葉はもう聞こえない。俺は飛び降りるんだ。そして死んで、転生だ」
今度はしっかりと眼下を睨んだ。
きらびやかな下界の様子は、俺の最後の輝き。
いや、異世界へ挑戦する俺にあてられた祝福か。
「じゃあな、あんたのおかげで決心がついたよ」
「…………」
そして俺は、今までの怯えた様子が嘘のように会社の屋上から飛び下りた。
一瞬────頭をよぎる母親の顔。
あっ、そういえば親孝行……忘れてたな。
足への強い衝撃と共に、脳が泥のなかへ沈むような感覚。
痛みはない。痛みはないが……わずかばかり心の奥底でジィンと疼く寂寥があっただけだ。
■
一人の男が生を終える瞬間を見届けた老人は、寂しそうに口笛を吹いた。
独特な音色だ。
そして不安になる音調だ。
「野暮くん」
老人は口笛を辞め、ただ惜しそうにその場を去っていく。
「そちらの女神はろくでもないぞ」
風に消えるような呟きは、すでに異世界へ旅立った男の元に届くことはなかった。
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