一 遥遥
気がつくと、私は自宅の床の間に立っていた。
辺りを見回すと、そこは確かに私の家の、とても見慣れた床の間だった。けれどなぜここに立っているのかが思い出せない。
なぜ?
強く思うと、ぐらりと視界が揺れて頭痛がした。倒れそうになるのを慌てて堪える。
とそのとき、私の視界の端に、大きな白い塊が映った。
白い塊、それは私の足元に。視線を落としてみると、塊と思ったものはただの真っ白な布団だった。布団のふくらみからすると、その中には誰かが寝ているようだ。
誰かは白い掛け布団を掛けて、その上には布に包まれた細長い何かが置かれている。そして、顔にはやはり白い布を被せられていた。そして枕元には火のついた線香が。……それらがどういった意味を成すのか、私は知っていた。
亡くなった人の、弔いの儀式。
「誰が……?」
首を傾げた。私の家には――こういう言い方もおかしいかもしれないが――しばらくは亡くなりそうな人間はいないはずだ。
顔に掛けられた布を取って、確認し――私は思わず息を飲んだ。
そこに眠っていたのは紛れもなく、私、だった。
「……あ……」
声が漏れ、そして。
理解する。
そうか。
――私は死んだんだ。
「…………」
私はそっと『私』の顔の白い布を戻した。
思い出した。
あの雨の日、私は礼さんとご飯を食べる約束をしていた。二限が終わった後の昼休み、私は傘を差して構内を歩き、正門を出て道路を渡り――しかしその横断歩道の上で、信号を無視して突っ込んできた車に。
痛みは覚えていない。そこで記憶が途切れている。
けれどここに『私』が眠り、私がここで見下ろしているあたり、私は成仏できていないということなのだろう、きっと。
つまるところ今の私はあれだ。夏場によく語られる『幽霊』とかいうやつだ。
それはわかった。……けれど、と思う。
けれど、私は。
ここに佇んでしまっている私は。
どうしたらいいのだろう。
どうしたら――
「……え」
そのとき。
私のものではない、声がした。
それは背後から。
「……誰?」
幽霊の声なんて聞こえないだろうことはわかっていたけれど、言いながら、振り返る。
するとそこに立っていたのは、一人の男性だった。
私は思わず、彼の名を呼んだ。
「ああ……礼さん」
水梨礼さん。私の幼なじみで年齢はひとつ年上。一浪したため、今は私と同じ大学の同じ学年に在籍している、彼。
彼が驚いたような表情をしているのは、無理もない。何せ、幼なじみの死が目の前に存在しているのだ。
「え……」
現実を受け入れられない、そんな表情で呆然と立ち尽くしている。
幼なじみのそんな顔を、私は今まで一度も見たことがなかった。
「……礼さん……」
だから何となく悲しくなって、私は視線をそらした。
自分の死体といつまでも一緒にいたいとも思わないし、ここを訪れる人たちの悲しそうな顔をこれ以上見ていたいとも思わない。
行くあてなどひとつもないが、そっとこの部屋を出て行こう、と考えて私はゆっくり歩き出す。
けれど。
おや?
――なんで礼さんの視線が私を追ってくるのかな?
礼さんの見ているべき私はそこに眠る私であって、少なくとも今ここに立つ私ではないはずだ。というかそもそも、礼さんに私は見えないはずだ。だって私、幽霊だし。
そう私が戸惑っていると、礼さんはその驚いた表情のまま、私のほうにゆっくりと両手を伸ばし、がっし、と肩をつかんだ。
……あれ?
幽霊ってこんなにあっさりつかめるもんでもなかったよね?
私と礼さんは、たっぷり数十秒見詰め合って――そして。
同時に叫んだ。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「おにょぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」
そしてまたたっぷり数十秒声を上げてしまってから、我に返った。
「な、なんで、亜由美……」
「いや、えっと何、何なのコレ」
お互いにうろたえている。
けれどのんきに慌てていられる時間ではないことはすぐにわかった。
「ど、どうしたの礼くんっ!」
飛んできたのは、お母さんの声。
一瞬にして、やばい、と思う。何せ私は死んでいるはずなのだ。礼さんだけじゃなく、お母さんにまで見つかったらどうなることか。
「やべっ……」
そしてそれは礼さんも同じ気持ちだったらしい。礼さんは慌てて辺りを見回した。その結果、見つけたものは何の変哲もない押入れ。
私を押しのけて押入れに駆け寄ると、礼さんはあらん限りの力でそれを一気に開けた。それから私をひょいと持ち上げて、その開いたスペースに放り込む。
「入ってろ!」
「え、れ、礼さっ」
「話はあとで聞く!」
私の鼻の一センチ先で、すぱんと音を立てて押入れは閉められた。
視界が真っ暗になる。足音が聞こえたのはその直後だった。閉められた唐紙の向こうから、私の知った声が聞こえてくる。お母さんと礼さんだ。
「どうしたの、礼くん。……そんなところにぼうっと立って」
「いえあのちょっとコンタクトを落としてしまってッ!」
「……あら、そうなの? 大丈夫?」
「ええまあ見つかりましたすみませんすみません大丈夫ですからおばさんはどうぞそちらへっ!」
そんな声が聞こえてくる中、私は体を小さく丸めたまま時間が過ぎるのを待つ。お母さんにまで見つかれば、今以上の大騒ぎになることは確実だ。
しばらくばたばたという音がして――それから襖が開いた。眩しさに少しだけ目が眩む。日中の明るさの中、憮然と佇む見慣れた姿がそこにはあった。
「礼さん……」
彼の名を呼ぶ。けれど礼さんは何も言わない。
返事の代わりに、彼は着ていた黄色いパーカーを脱いで、荒々しく私に被せた。
「うわっ?」
「着ろっ!」
小声で短くそう言う。
私がその大きなパーカーに袖を通すと、彼は私の顔に自分の顔を近づけた。鼻先が触れ合いそうなほどまで接近して、小声で言う。
「静かに窓から外に出ろ。絶対に玄関には行くな。おばさんに気づかれる!」
「り、了解」
私は音を立てないようにそっと、窓を開けた。そこから外に身を躍らせる。そして地面に足を付けると、礼さんに向けて右手の親指を立てて見せた。礼さんはひとつ頷くと、やはり音を立てないように窓を閉めて鍵をかける。
その場で動かずにじっと息を潜めていると、しばらくして、玄関が開く音がした。
礼さんの声。
「おばさん、ありがとうございました」
「ええ。……来てくれてありがとう、礼くん。
きっとあの子も喜んでいると思うわ」
「そうだと嬉しいです。……失礼します」
そして礼さんは家の中――たぶんお母さん――に向けて一礼すると、そのまま家から去っていった。
……オイオイオイ礼さん私置き去りっ!?
どうしようどうしようと思っていると、出て行ったはずの礼さんがそっと戻ってきた。私のもとへ来ると、無理矢理黄色のパーカーのフードを被らせた。
「わふっ」
「声を出すなっ」
それから腕を引いて立ち上がらせると、私を連れて静かに敷地から出る。
そして道路に置いていた自転車の後ろに私を乗せると、礼さんは全速力でペダルを漕ぎ出した。
私が喋らせてもらえたのは、上りの電車に乗せられて、しばらく経った頃だった。
「……ここまで来りゃあ、何とかなるだろう」
礼さんはあのあと自転車で駅まで全力疾走した。自転車置き場に自転車を止め、しばらく肩で息をしたのちにまた私の腕を掴んで走る。辿り着いた駅の切符売り場で私の分の切符を買って、ホームへと急ぐ。
ちなみにこの間、私が何かを言う隙はなかった。言おうとすると鋭い視線で睨まれたから、口を噤まざるを得なかったのだ。
今、私は、礼さんが鞄の中に持っていたキャップを被っている。そしてその更に上に黄色いフードを被るというなんとも不思議な格好をしているが、人の視線を呼ぶほどではないようで、特に誰かがこちらを凝視しているということはない。
「えっと……その」
ようやく喋ることを認めてもらえた私は、おずおずと礼さんに声をかけた。
礼さんの視線がこちらを向く。
「私、幽霊だと思ってたんだけど。私のこと、見えてるの」
「ああ、見えるな。見えるし触れる」
私が膝の上に置いていた右手を、礼さんは左手で握った。
その温かさは幼い頃からずっと変わらない。
「けどそれは、俺だけじゃないみたいだな。お前は切符も持てるし改札も通った。だから生きてる人間とまったく同じで……
……だけど亜由美は死んだはずだ。お前は誰なんだ?」
「そんなこと、聞かれても」
私にもわからない。
私は真柴亜由美としてこの世に生を受け、十九年を過ごし、今は礼さんと同じ大学の英文学科に在籍していた――普通の学生の、はずだった。
けれど、真柴亜由美は、死んでいた。
白い布を被せられて、私の家で眠っていた。
だったらここにいる私は?
「自分がどうなったのか、覚えてるか」
礼さんの言葉に、私は小さく頷いた。
「……一応」
思い出すのも怖い話だが。
私は少し俯いて、
「あの日、二限のあと、ご飯食べる約束してて」
礼さんと。
主語はつけなかったが、彼はわかってくれたようだった。
「ああ」
「雨の中、傘差して正門の方に歩いてて」
「ああ」
「それで正門出て横断歩道渡るとき、信号無視した車が突っ込んできて」
「あ……あ?」
礼さんの相づちのイントネーションがおかしくなる。少し気になったけれど、私は取り敢えず先を続けることにした。
「それから……気がついたらあの部屋にいて、私が隣に寝てた……んだけどねえなんで私のほっぺた引っ張って痛い痛い痛い痛い痛い痛いようっ」
「あ、悪い」
ほら夢って頬つねると覚めるって言うじゃん、とか言うけどそれって自分のほっぺたつねるんじゃないんですか礼さん。
「お前それ、本当に間違いのない記憶か?」
「うん」
「……本当に、車に轢かれたのか?」
走ってくる車と、全身への衝撃。
痛みは覚えていないけれど、それは確かな私の記憶で。
「……うん」
私は頷いた。
と礼さんは、眉根を寄せて苦々しく唸る。
「記憶錯誤か……何だろうな、こういうすり替えってのあるんだろうか」
「え?」
ぶつぶつと呟く彼は、私のことなど眼中になくなったようでもあり。私に何の説明もないままに考え込む礼さんに、痺れを切らした私は尋ねた。
「どういうこと、礼さ――」
「ちょっと待て」
けれどそれすらもすぐ遮られてしまい。
礼さんはポケットから携帯電話を取り出すと、操作をして耳に当てた。
「電車で携帯通話はマナー違反だよ」
「非常事態だからいいんだ」
私の注意も聞きはしない。
礼さんは数拍置いた後に、電話の向こうへ喋りだした。
「ルナか。俺だ。今何してる。研究室?
ちょっと聞いてほしい話があるんだけど。あ? 何? ……クレイジーケンバンドじゃねえよ。つかネタ古ィよ。……レポートくらいいつでも書けるだろ。大体それ〆切来週じゃねえか。急ぎじゃねえんだし、頼むよマジで」




