十三 with her
「お騒がせ女」
「むか」
気がつくと私は、白む空間の中に一人で立っていた。
その霧のような白の中に人の気配を感じて、私は開口一番言ってやる。
と、わざわざ擬態語を返してくれた。
「その挨拶はひどいと思います。遺憾の意を表明します」
「あんたは閣僚か」
現代日本人として、微妙に洒落になっていない冗談を交わす。
そうして返ってきた声は、一番最初に聞いた声によく似ていた。……車に撥ねられた私に向けて「お願いよ」と言った声。
いや、似ていただけじゃない。きっとそれと、まったく同じものだった。
声の聞こえてきたほうを向くと、霧の向こうに人型の輪郭がうっすらと見えた。私はそれに向けて、不満げに、言う。
「ルナさんにも無責任って言われたくせに」
「……まぁ、そりゃぁ、否定できないけど」
返ってくる彼女の声は、とても言い訳じみていた。
そして私は、それを聞いて気づく。
「ああ、思い出した」
「何を?」
「あなたの声を。どこで聞いたのか」
と、笑い声が耳に届いた。鈴の転げるような柔らかいそれ。
彼女は好奇心のにじむ声で、尋ねてくる。
「どこだった?」
「小さい頃。ラジカセで」
自分が普段聞いている声と、録音した声との差。
礼さんが理科の授業で習ったんだと自慢げに語ったことがあった。そして実際に録音して聞いて、自分で聞いている自分の声と違うと知った、小学校の頃の思い出。
ぼやけていた彼女の輪郭がはっきりしてくる。
霧が晴れたとき見えたそれは、まるで鏡のようだった。
『私』がそこに立っていた。
「あったね。そんなことも」
佇む彼女は、礼さんとデートしたときの写真にあった服を着ていた。自分と同じ顔をした彼女に言うのもおかしい話かもしれないが、その服は彼女によく似合っていた。
そして彼女は笑っていた。
「ありがとう。これで、眠れる」
眠れる、とはどういうことか。そんなものは聞かなくてもわかったし、それに何より、聞きたくなかった。『私』の遺言なんて、私は聞きたいと思わなかった。
それでも彼女は、じっと私を見ていた。
別の世界の別の人生を享受し、今なお――恐らくは――生きている私の姿を。
「ねえ」
「何?」
声をかけると、彼女は笑った。
その表情が痛々しく見えるのはきっと、私の先入観。
「寂しくない?」
生きる私が、死んだ私に。
恐る恐る訊くと、彼女はにっと笑った。
それは曇りない、純粋な。
「次の世界でも、きっとまた、出会えるから。大丈夫」
「よく言いきれるね」
言うと彼女は、「愛してるから」と言った。
誰を。そんなことは聞かずともわかった。
私は渋い顔を作る。
「私の顔でそんなこと言わないでほしいね。私のくせに気持ちわる」
「それはお互い様」
声を上げて笑った。
いつか録音して聞いた笑い声が、私の耳に届いた。私がその声をかつて聞いたとき、そこでは礼さんの声も一緒に笑っていた。
――そのとき、ふと。
「ねえ」
「うん?」
私が声をかけると、彼女は首を傾げた。
漠然とした不安をそのまま言葉にする。
「私はどうなったのかな」
「さあ」
「うわ無責任」
あまりにもどうでもよさそうな回答に腹が立つ。
私の言葉にまた不快を覚えたのか、彼女はまた眉根を寄せた。
「私とあなた、ちょうど同じ時間にこう、事故に遭ったみたい。
でも私と違って、あなたはまだ大丈夫みたいだったから――どうせだから、できたらちょっと私の未練解消に協力してもらおうかって思って、放り込んでみたんだけど。私の生きていた場所に。
どうなるかわかんなかったけど、まぁ、上手いこといってよかったってか」
「何その『料理に隠し味突っ込んでみました』みたいな気軽なノリ」
「でも成功したから良かったよー」
そうしてにこやかに笑うから、ムカつくことこの上ない。
けれどそんな彼女に、聞いてみたいことがあった。
答えもわかっていたけれど。
「あなたの『未練』って何だったの」
「えー、それは勿論、自分を殺した犯人が捕まっていないという――」
けれど彼女は悪びれず、そんなことをうそぶくから。
「『自分』に嘘をつくのは無駄な行為だよねー」
私はそう言ってやった。
と、彼女の顔が不機嫌そうに歪む。ざまあみさらせ。
私は少しの優越感をそっとしまいこんで、囁くように。
「……礼さんとルナさんのことじゃないの?」
「自分の顔に自分の腹の中読まれるってムカつくね」
なんとか笑顔を取り戻して言う。が、彼女の口の端は明らかに引きつっていた。
私があの世界に飛ばされた理由を、ルナさんは最初「嘆き悲しむ礼の心が、他世界の亜由美さんを引き寄せた」などと語っていたが、それは当たらずも遠からず、だったのだろう。嘆く礼さんを救済したいと、『私』の最後の願いに苦しむルナさんを。彼らを助けるために『私』の取れた唯一の方法が、私だったのだ。
上手くいくかどうかは本当に、『私』自身にも賭けだった。
だから私は彼女の変わりに――と言うわけではないが――満面の笑顔を作ってやる。
「そりゃお互い様」
罪悪感からか、それとも他の何かかは知らないが、彼女は私から目を背けた。
そうするだけで、私の質問に答えることはしなかった。けれど仕草と態度と彼女の言葉が、その答えを雄弁に語っていて。
だから私はそれ以上の追求をしなかった。
代わりに、別のことを言う。
「私、まだ生きてるのかな」
「さぁ。――それは、帰ってみればわかるんじゃない?」
自分で呼んでおいて、それもまた、何とも無責任な意見。
けれどそれは確かに正論だった。だから私は頷いてしまう。
「それもそうか」
「あなたまで礼を泣かせることはしないでね」
「私の顔で礼さんを『礼』ってゆーな」
気色悪い。
それに、だ。
「……それに、私の世界の礼さんが私のこと好きとは限らないよ」
「そんなことない」
けれど彼女は、きっぱりとかぶりを振った。
首もとのピンクゴールドの花が、彼女と一緒にさらりと揺れる。
「あの人は――どんな世界でも絶対、私のことを愛してくれるもの」
それはきっと、絶対の信頼。
そして私はその言葉を、少し前に別の口から聞いていた。
「あの世界の礼さんも、同じようなことを言っていたね」
「うん」
言ってやると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
私の世界の礼さんが、私を好きかどうかなんてわからない。
けれど礼さんへの愛なんてもんを素直に語る私も、私への愛を惜しげもなく語る礼さんも、どちらもやっぱり気色悪い。
どちらも、私の知る私や礼さんではない。
だからやっぱり――あそこは私の生きるべき場所ではなかった。
……彼女の生きるべき世界だった。
「じゃあ、まぁ、そろそろ帰ろうか」
話に一区切りついたとき、彼女は軽く両の手を叩き合わせて、そう言った。
彼女は私だから、彼女の言いたいことは、言葉にせずともよくわかる。
それでも私は言葉にして、それを確認した。
確認したかったから。
「お互いの、あるべき場所へ?」
「そういうこと」
そしてそれに、やはり彼女は頷いて。
私と彼女は背中合わせに立った。
これから帰る先で、一体私はどうなっているのか。死んでいるのか、生きているのか。それすらわからないけれど――それでもそこが、私の行くべき場所だと、私は既に知っていた。
だから私は行くしかない。
……私たちは、顔を見ないままに、別れの言葉を。
「元気でね」
「お互いに」
そして私たちは、歩き出した。
すべてが白み、そして消えていく。
――私たちは薄れ行く意識の中で歩み続け、だから、どちらが言ったかはわからない。
けれど私の耳はしっかりと、その言葉を捕らえていた。
「願うことは、どこかの世界で」
ともに生きられますように、と。
*
そして、ゆっくりと目を開けた先もまた、白かった。ただ天井が白いだけだということに気づくまでに、さほどの時間はかからなかったけれど。
色味がないな、と思いながらそれを見つめる。それ以外にしばらく何をしようとも思えなかったのは、意識がまだ朦朧としていたから。
ここはどこだろう。もし死んだのなら天国か。いや、天国ならまだましだ。この世界は一体どの世界なのだろう。私はもとの世界に戻れたのだろうか。もし隣にまた私が死んでいたら――
と、嫌な想像をめぐらせ始めたとき。
「――あゆ、み?」
声がした。
私から向かって右の方。
それは、幼い頃からよく聞いた声。
そしてそれは、あの世界の中でも、よく聞いた声だった。
「……れい……さん?」
視線をゆっくりと、左の方に動かす。
私にとってよく見慣れた顔が、そこにあった。
「やっぱり……礼さんだ」
「亜由美!」
座っていた丸椅子を蹴って立ち上がり、私の右手を両手で掴んで、礼さんは私の名を呼んだ。
それは幼い頃と変わらず、そしてあの世界の礼さんとも変わらず、温かかった。
「亜由美、わかるか!? 俺が、俺がわかるか!?」
まるで縋るように、彼は私に言う。
私が首を小さく縦に振ると、礼さんの目に、涙が溢れ出した。
「私……死んで……?」
尋ねると、彼は大きくかぶりを振った。
「死んでない、馬鹿、死んでるわけねえだろ!
お前あのとき、車に撥ねられて、運ばれて、意識不明で、あれからずっと眠って、医者にはいつ起きるかわからないって、言われて――ああくそっ!」
頬を伝って落ちる涙を疎ましく思ったのか、それとも恥ずかしいと思ったのか。彼は目を左手の甲で強く擦る。けれどもそれは間に合わず、拭った先から新しい涙が落ちて彼の手を濡らしていく。
「おばさんは今、先生に呼ばれて、医者の先生のところに……
呼んでくるから、今、呼んでくるから……亜由美……」
けれど彼は私の手を離そうとしない。
右手で固く握ったまま、離さない。
「……心配かけて、ごめんね」
「本当だよ、ちくしょう、くそっ……」
私の手を掴む礼さんの手は、小刻みに震えていた。私はそれだけ、彼を怖がらせていたのだろう。
「お前どんだけ、寝てたか自分でわかってんのかよ……」
震える声で吐かれたその言葉に、私は時間のことを思い出した。
そうだ。あれからどれくらい経っているのだろう。
「……三日……五日くらいかなぁ……」
夢の中の流れをぼんやりと振り返る。あの世界で過ごした時間は、確か、ほんの数日だったから、こっちの世界で流れた時間も同じくらいだろうと予想した。
けれど彼は私に向けて怒鳴った。私の予想は、あまりにも馬鹿げた答えだったようだ。
「馬鹿! そんな短いわけねえだろ!
お前はほんとに、いろんな人に心配かけてっ……本当に、お前……本当に、俺が見ててやんなきゃ、すぐ下手するし、馬っ鹿じゃねえの……んとにっ……」
礼さんはいつもそうやって、兄貴面をする。すぐに年上風を吹かせる。
ごめんね。もう一度言えば、けれど彼は今度は首を振った。そして、良かった、と呟いた。
「本当に、良かった……」
「……うん」
良かった。震える声でただそれだけを繰り返す礼さんに、私はまた謝りかけて、けれど今度は飲み込んで。
今度は「ありがとう」と言う。彼は、頭を縦に振った。
そうして俯いて、しばらく泣き続けたあと、彼はまた私の名を呼んだ。
「亜由美……」
「……何?」
礼さんは、まだ涙の止まらない目を拭うのをやめた。
私の右手を両手で掴み、そして、真っ直ぐに私を見た。
そして。
「言っとく。俺が今すぐ死んでもいいように」
そう言った礼さんは。
ぐしゃぐしゃの顔で。
涙に震えた声で。
それはとても格好悪く、甘い告白なんかするようなものではなくて。
身を挺して私を守ろうとしてくれた、あの世界の礼さんのように格好いい礼さんなんかではなくて。
「――俺は、お前が」
けれどそれが、それこそが。
私の知る礼さんの顔だった。
・
・
・
自分以外誰もいない研究室に、彼女はいた。
教授室のドアには『在室』の札がかけられているから、そのドアを開ければ彼女の師事する教授がいるのだろうが、用がないから声もかけない。彼女は適当なパソコンを選んで立ち上げた。レポートを書くためだ。
最新版ではないこのOSは、起動が比較的遅い。その間に彼女は、自販機で買ってきた缶のプルトップに指をかけた。しばらくして、青い海といくつかのアイコンが表示される。
スタートメニューの『プログラム』から、文書作成アプリケーションを探し――そういえば、と、最近ウェブメールのチェックをしていないことを思い出した。インターネット・エクスプローラを起動し、大学のポータルサイトへアクセス。『在学生専用』と書かれたリンクをクリックして、学生の大学から支給されているユーザIDとパスワードを入力すると、彼女の個人ページへ飛ぶ。
そのメニューバーから『メール』を選んで、クリックした。表示に時間がかかるのは、決して珍しいことではない。
「…………」
先ほど開けたブラックコーヒーの缶を持ち上げ、自分専用のカップに向けて傾ける。注ぎ終わったときには、ページは完全に表示されていた。
新着メール、十件。それほど多くなくてよかった、と安堵する。
けれど。
「……ん?」
思わず彼女が疑問符を浮かべたのは、一番最新のメールの送信主が、見慣れたアドレスだったから。
「礼?」
アドレスの持ち主の名を呟きながら、クリックして、メールの本文を表示する。
そこには決して短くはない文章がしたためられていた。
友人から送られた、一通のメール。
他のメールを確認することも放棄して、彼女はそれを読み始める。
*
ルナへ。
礼だけど。…メアド見りゃわかると思うけど。
直接頭を下げるのは気恥ずかしくてできないから、携帯にメールで送る。
と思ったんだけどお前、携帯のメアド変えただろ? メール送れないんだけど。
だえもんさんに怒られまくって仕方ないからWebメにする。
よくよく考えたらこっちの方が、いつ見るかわからないから恥ずかしさも薄れるし。
いろいろありがとう。俺も何とか落ち着いてきた。
事件が起こってあいつに出会うまで、死んだみたいだった俺を気にかけてくれてありがとう。あいつに出会ったあとも、何かと面倒を見てくれてありがとう。
今回本当に迷惑かけたな、お前には。
俺、当事者のくせにさ、今でもあいつと会ったこと、話したこと、事件を調べたこと、犯人を捕まえたこと、みんな嘘みたいだって思ってる。
でも確かにあいつは俺の前で死んだし、殺されたし、葬式もしたし、だから本当に現れるはずのない人間で、でも確かにあのときあいつは俺の目の前にいたから、あれは嘘じゃなく、本当のことだったって、そこまで順番にひとつひとつ考えて、ようやく飲み込めるような…
けどまぁ、そこらへんはまだ微妙だ。
なぁ、ルナ。
俺は亜由美が好きだった。
夏祭りに行ったとき、
大学で会ったとき、
俺が亜由美を好きだって言ったとき、
馬鹿みたいに表情をころころ変える亜由美が好きだった。
小さい頃からずっと一緒にいて、
だからいつもいつも俺のものみたいに思ってて、
歳を取ってもずっと一緒にいると思い続けてた。
だから一緒に育ってきたあいつがいなくなるなんて信じられなかった。
でもそうやって、この世界の亜由美は、死んだ。
でも、今回のあいつが俺の作り出した妄想じゃないんなら、
どこかの世界であいつは生きてる。
ここで死んでも、どこかの世界で、あいつは生きてるんだと思った。
お前が前に喋ったように、輪廻とかそんなのが存在してるなら、
この世界で死んでもどこかの世界でまた笑ってるのかもしれないと思った。
だから俺も、
あいつは死んだけど、でも、
あいつがどこかここ以外の場所で、
俺が好きになったあの笑顔をまだ浮かべられているなら、
俺はそれでいいっていうか、
なんていうか、
あいつがいなくても、
あいつが笑ってくれたここで、
俺は生きなくちゃって、
そう思ってあいつの分までここで生きていこうって、
飲み込もうとするっていうか、
あいつがどこかで生きているなら、
俺も頑張ろうって、
そうやって納得しようとするっていうか、
なんていうか、
なんていったらいいのか、
…いや。
ごめん。
ぐだぐだ書きすぎた。
言いたいことって意外と上手く伝えられないもんだな。
言葉ってめんどくせ。
そんでさ、
そうやってたくさん悩んでさ、
そん中で、
でも、
最後に強く、
思ったんだ。
だったら、俺は、
や。
違うな。
俺は、
だけど俺は、
だから俺は、
だったら俺は、
…いや。
それでも、俺は。
*
そのときがちり、というノブを捻る音がした。
教授室に続くドアが開いたのだ。
「――上水流さん」
教授の声が彼女を呼んだ。
けれども彼女は振り返らない。
「なんですか」
ただ呼ばれたことに対する返事だけをする。
教授のそれは、絞り出すような声だった。
「今連絡があったんですが……その……」
訪れる沈黙。
それは迷い。
多くの時間の後に、教授の声が、彼女に向けて放たれる。
「……水梨くんが――」
そうして彼女の師事する人が語るのは、この世界のかたち。
並行世界でもパラレルワールドでもなく、ただ自分が生まれ、十数年を生きてきたこの世界のかたち。否定できようもないその姿。
……けれどもそれは、彼女の耳には届いていなかった。
「新しい世界で……」
「え?」
不意をつかれたように、教授が呟く。けれど彼女のその言葉は、教授に対してのものではなかった。
音もなく、彼女の手元のブラックコーヒーが波紋を作る。
それが自分の涙によるものだということに、彼女は気づいていた。
「……しっかり出会えよ、馬鹿野郎」
ディスプレイに遺された、友人の最後の一文は。
非常に滲んで、けれどそれでも彼女の瞳に強く強く焼きついた。
俺はあいつと、ともに生きたい。




