十二 “I want to say to you.”
そして、三日が経ち。
私はなぜかまだルナさんのお世話になっていた。
「困ったなあ」
「困りましたねえ」
「お前らちょっと暢気過ぎないか」
いつもの通り、ルナさんと礼さんの研究室にて。
煎餅をお茶請けに緑茶――自販機で買ったものだけれど――を啜る私たちの姿を見て、礼さんは至極まともなツッコミを入れた。
本日はオープンキャンパスが行われているそうで、外は非常に賑やかだ。事件のせいで延期せざるを得なくなっていたものを、犯人逮捕の報を得てようやく行うことにしたらしい、と言うのはルナさんの情報。突然の実施のため人が集まるかどうかが懸念だったが、この分なら問題はなさそうだなと彼女は呟いていた。
けれどそれより賑やかに、現状に抗議するのが礼さんで。
「『困ったな』レベルの話じゃないだろう? 緑茶啜りながらできる話でもないだろう!? なんだその三時のおやつですよ的な非常にぬるーい会話はっ!」
「……と、言われてもだな」
眉根を寄せてルナさんが呻く。
キッチンペーパーの上に開けた煎餅をまた一枚取りながら、
「私はてっきり、今回の一件が解ければ同時に亜由美さんも元の世界に帰れるものだと」
「俺だってそう思ってたよ! どうすりゃいいんだよ、これからっ!」
「怒鳴るな。焦ったところで答えは出ないのだから仕方あるまい」
「そうだけどっ」
その返事を聞きながら、ルナさんは煎餅をまた一口かじった。ばりぼりという音が研究室中に響き渡るが、私たち以外の人間はいないのだから特に迷惑に思う人はいないわけだし、いいだろう。
そんなルナさんを彼はもう一度睨みつけて――けれど。
壁の時計を見て今の時間に気づくと、唸った。
「……あー。俺ちょっと講義だ」
「うん。行ってらっしゃい」
礼さんが私を軽く睨むけれど、私はそっぽを向いてみせる。と、ため息をついた。
ルナさんが首を傾げて、尋ねる。
「何取ってるんだ?」
「マクロ基礎」
「それ一年の必修だろう」
「うっせ。再履なの」
拗ねたようにそう言って、彼は研究室から出て行った。
がちゃん、とドアが閉まる音がして。
ルナさんはふと笑った。
「礼も立ち直ったみたいだな。ある意味ではハッピーエンドか」
「え?」
思わず聞き返す。立ち直った、とは?
私の視線を受けたルナさんは私を見返すと、半分ほどかじった煎餅をそっと手元のキッチンペーパーの上に置いた。それから緑茶を少し啜って口の中を湿らせてから、彼女が私に言うことは。
「亜由美さんが亡くなったとき、あいつ自体も生きてるんだか死んでるんだかわからない状態まで落ち込んだんだ。たった数日で、体重何キロ落としたんだかな。毎日毎日亜由美さんのなきがらのもとへ行って、彼女の顔を眺めていたらしい。
あなたが来て、あいつはあれでも元の調子に近づいた。――あなたに弱いところを見せたくなかったからかもしれないけれど」
「…………」
何気なく語られるそれは、私の知らない礼さんの姿。
私を失って途方に暮れていた彼の姿。
私が何も言えなくなっていると、ルナさんは、天井と壁のつなぎ目あたりを見上げながら、こんなことを言い出した。
「帰らないとトゥルーエンドにはなれないのかも知れないが。
亜由美さん、ここで私はひとつの提案をしてみようか。私たちが目を逸らしていた、けれどいつかは必ず出てくるであろう解決策だ。
……こちらの世界の人間として生きる気はないか」
それを聞いて、私は。
自分で予想したよりも、驚かなかった。
三日前、すべてを解いてなお帰れなかったとき――いや。こちらの世界に来たそのときから、いつかは上がると予想していた言葉だったから。
「でも……私はこの世界の人間じゃないです」
そして今私が言ったこれもまた、用意していた言葉。
彼女は煎餅を一枚取りながら、私を見ずにすらすらと喋り続ける。まるで用意していた台本をそのまま読み上げるように。
「記憶喪失とでも言って警察に届ければいい。行方不明者を洗ったところであなたに該当する人物はいないから、適当にあしらっておけばあなたの存在はこの世界にも認められる。戸籍や国籍の問題は私がどうにでもしてくれよう。
この世界では、真柴亜由美としての人生は送れないだろうが――あなたが望めば、あなたを私の妹として戸籍に迎えても構わない」
「…………」
どうしたら成功するのかわからない、別の世界に帰る方法よりも、はるかに現実的に感じられる彼女の案を聞いて。
返答に窮していると、彼女はいつものように笑った。
私を安心させるように。
「それもひとつの選択ということだ。もちろん押し付けることはしない。
――まあ、それはあなたがすべてを諦めたときの話だ。妥当に考えて、帰る方法を探す方が先だろうけれど」
「……私は」
最後の救済措置。
それは、私がもといた世界の存在を諦めたとき。
私があるべき世界は、まごうことなく、そちらの世界だ。
……けれど。
間違いなく『この世界』も、私を受け入れてくれている。
「私は、この世界の人じゃないけど」
俯きがちになっていた顔を上げる。
彼女は――この世界に生まれ、今もこの世界に生きる彼女は。
とても優しい目で、私を見ていた。
「この世界には、ルナさんがいて、礼さんもいて、……だから。
それもいいかなって、気もしました」
その笑顔は、とてもぎこちなかったかもしれないけれど。
ルナさんはゆっくりと、頷いてくれた。
「ゆっくり考えればいい。あなたの時間は、腐るほどある」
「……はい」
それもひとつの選択だ。
そして。
「そうだ、亜由美さん」
煎餅を食べ終わってから、彼女が鞄から取り出した本には、大学図書館の蔵書シールが張ってあった。
「はい?」
「頼みがあるんだが、この本を返してきてもらえないだろうか」
その本には一枚の紙が挟まっていて、そこには『返却期限』と書かれていた。そしてそれに記された日付は一週間前。つまりは既に返却期限を一週間も過ぎていることになる。
ひっくり返して表紙を見ながら、私は尋ねる。
「なんで返さなかったんですか」
タイトルは『Finnegans Wake』、著者はJames Augustine Aloysius Joyceと書いてある。開いてみると、内容は英語……いや、ドイツ語? フランス語? ……よくわからない。少なくとも、私には読めない。
私の質問に、彼女は悪びれるふうもなく、こう言った。
「いろいろ忙しくてな。二階のカウンターに置いてきてくれ。頼む」
彼女を見ると、彼女は既に私から視線を逸らし、一番手近なパソコンの電源を入れていた。そのルナさんのお遣いを、嫌だというのは簡単だが――仕方ない。私はため息をひとつついて、研究室を出た。
図書館は、研究室のある建物の隣にある。
エレベーターで階下に降りてガラス戸を押し、建物の外に出る。――と。
「すみませーん」
「?」
声がして。
見るとそこにいたのは、学生服を着た人だった。頭を軽く掻きながら、困ったような笑顔で私のほうに歩いてくる。辺りを見回しても私以外に該当の人物はいないようで、彼はどうやら私に声をかけたようだった。
私の存在自体に気づかれたのだったら全力で逃げようと、身構える。
しかし彼は笑顔のままで、私の予想と全く違うことを言った。
「学食ってどこにありますか?」
「……学食、ですか?」
「はい。そこで友達と落ち合う約束してるんですけど、迷っちゃいまして」
……どうやら、ただの、オープンキャンパスの客人らしい。
私は彼に気づかれないように、知らないうちに止めていた息を吐いた。そして本を持っていない方の手で一方向を指差して、
「あっちのほうですよ。九号館……ええと、その建物に沿って少し行くと広場になってるところがあるんですけど、その広場を囲ってる建物の一階が学食になってます」
そう答える、と。
記憶のためだろう、彼は私の説明を一度口の中で復唱して、それから頭を下げた。
「わかりましたー。わざわざすみません、ありがとうございました!」
そして彼はそちらに走り出した。それは恐らく、友人を待たせないようにとの配慮なのだろう。
……その姿が建物の向こうに消えるまで見送って。
彼は純粋な、この世界に生きる人だった。そのことに少し、悲しみのような苦しみのような感情が私の心を突く。けれどそれを思ったところで今の私に何かを為す術はないから、私は俯いて帽子の下で笑うことで、その想いをしまい込んだ。
隣の建物に歩み寄り、その重い扉を開ける。
放課後、特に試験期間直前になると人で溢れかえる図書館は、試験にまだ遠いからかそれとも授業時間だからか、閲覧室にも書庫にも、人はほとんどいなかった。
ルナさんに言われた通り、二階のカウンターに預かった本を差し出す。返却期限が切れていることを怒られるだろうかとも思ったが、ボランティアでやっているらしいカウンターの学生は何も言わずにそれを受け取ってくれた。
それから階段に足を向け――かけて、小会議室にふと目をやった。階段近くにある、学生でも借りられる小さな部屋だ。
それらは三部屋とも埋まっていて、一番手前の部屋では八人の学生が討論のようなものをやっていた。その隣の部屋では、三人の学生が何やら言いながら、大きな模造紙に地図のようなものを書き込んでいる。製図だろうか、私は専門分野でないからわからない。会議室に関しては防音設備がしっかりしていることもあって、いくら話しても、外に音が漏れることはない。
そして一番奥の会議室では、たくさんの本の山に埋もれるようにして、一人の男子学生が何かをノートにまとめていた。
……驚いたことに、その男子学生は、私の知る人だった。
「礼さん?」
思わず名を口にした。けれど彼は外に目をやる暇がないほどそれに集中しているようで、私に気付くことはない。
そっと近づいてノブに手を掛け、回す。ドアの開く音に驚いたのか、彼はノートと図書に向けていた視線をばっと上げて、こちらを見た。その正体が私だということに気づいたとき、彼は、へにゃり、と緩んだ表情をした。
「……うお。見つかった」
やっぱり礼さんだった。
机の上に山ほど積まれた本のタイトルを見る。『Programming the Universe』、『現代哲学』、『現実性模擬実験』、『仮想現実』、『可能世界論』、『Exist-Parallel World』、『The Infinite Assassin』……日本人の書いた書籍もあったが、大半は英語の本だった。勿論だが、その中身も英文ばかり。曲がりなりにも英文学科の私には、なんとなく内容がわかる、けれど。
「……これ」
その中には、ルナさんが最初に口にした本も何冊かあった。
他の世界を題材とした論文や、物語。
「うん。まあ。……うちの大学いろんな学科あるだろ。だからうちの大学図書館、いろんな本あるし、探したら、それに関する資料とか、ルナが言ってたような本も多少ならあるんじゃないかと思って。
当たりだったよ。山ほどある。小会議室借りれば、どれだけ本持ってきて積んでも嫌な顔されないしさ」
とは言うが、中学校時代から何度も英語に泣かされている礼さんだ。内容を理解する以前の問題で、この文章を読むこと自体が大変だろう。
山のように詰まれた中の一冊を手に取る。タイトルに『Sidewise in Time』と書かれていた。作者はMurray Leinster。
「ルナさんにいろいろ教えてもらえばいいのに。なんで再履修なんて嘘ついてまで」
「いや、最履は嘘じゃないんだけど。マジでマクロ基礎落としてるし」
この時間確かにマクロの授業だし。と付け加えて、
「でも今日はこの時間しか小会議室空いてねえってから、サボったんだ。
ルナに聞いてもよかったんだけどさ、あいつどうせ「こんなことも知らないのか」って言って馬鹿にするだろうし、それに……」
そこで一度言葉を切り、俯いて、
「自分で調べたかったんだ」
やはり曖昧な笑顔を浮かべた。
「……そっか」
私もぼんやりと、笑う。
手に取った一冊を、私はもとのように戻した。そして、
「あのさ」
「うん?」
「そういえば、二人で話する時間、あんまりなかったよね」
「そうだな。……最初のときは慌ててたし」
礼さんは机の上にペンを放り投げると、ぐうっと大きく伸びをした。ついでに大きくあくびをひとつ。
それからまた英和辞書をお供に、本を繰り始める。ノートに概略を少しずつ書き進め、唸りながらも必死に読み込んでいく礼さんの姿がおかしくて、私は気づくと微笑んでいた。
「……ルナさんに聞いた。私が死んで、礼さん落ち込んでたって。ごめんね」
「お前が謝ることじゃねえだろ。謝るべきなのは、……亜由美の奴だ」
礼さんのノートに書き記す文字が、少しだけ震えた。けれどすぐに何事もなかったかのような様子を取り戻して、彼は辞書と文章を見比べる。
「私ね」
礼さんの、文字を書く音が止まった。ペンを持ったまま、ゆっくりと私を見る。
私はそれに気づかないふりで、積まれた書籍を真っ直ぐに見ながら、独白のように言った。
「今でもまだ、本当に言っちゃってよかったのかって思ってる。
あの『私』が隠そうとしたこと……礼さんが傷つく結果になったなら、やっぱり言わなかった方がよかったんじゃないかって」
「……うん、……うん」
それに礼さんは、二度頷いた。
けれどそこに、後悔や、恨みつらみのようなものはなかった。
「落ち込んでないって言ったら、嘘になる。
でも、あいつの仇を討てたってのが、大きいかな。
……俺の大事だった人だから」
そして口を少しだけ歪めて、笑う。
その仕草は、二十年近く見てきた礼さんと何も変わらなかった。私の知る彼ではない、別の世界の別人だなんて、思えなかった。
「私、ね」
窓辺を見る。
ガラスの向こうで、緑色の葉が音もなく揺れた。
「ルナさんに言われたの。
……こっちの世界の人間として生きる気はないか、って」
礼さんはそれを聞いて。
ペンをまた、ノートの上に放り出した。
椅子に座り直して、私に訊く。
「お前はそれに、どう思った」
「帰る方法がないなら、それもひとつの手段かな、って」
そして微笑んでみせた。
少し、ぎこちなかったかもしれないけれど。
「……そっか……」
彼は少しだけ遠くを見て、そう呟いた。
窓の向こうの木に二羽の雀がとまって、何かを話していた。しばらくすると、片方だけが飛び立っていって、一羽だけがその枝に残された。
少しの後、その一羽もまた、どこかに飛んでいった。
どこに行ったのかなんて、私は知らない。
「……亜由美」
「うん……?」
そのとき、ふと。
もしこの礼さんが私を必要としてくれるなら――もし礼さんが、自分の側にいてくれと言うのなら。
私はこの世界にいようと思った。
そんなことをなぜか思って、……けれど私はとても落ち着いた心でそれを決めることができた。もしも礼さんが、それを望んでくれるなら、私はそうしたいと、強く思った。
私の名を呼んだ彼が、何を言うのだろうと待っている。
それから礼さんが私に尋ねたのは、私が予期しなかった質問だった。
「お前の世界に、俺はいたのか」
だから私は、思わず目を見開いた。
どうしてそんなことを聞くのかわからなかった。
……それでも私はひとつ、頷いて。
「いたよ」
「どんな奴だった」
答えると、そう尋ねられた。
私の知る、私の幼なじみは。
「礼さんは礼さんだよ。
……あなたによく似てる」
過去形で言えなかったのは、なぜだろう。
わからなかったけど、でも私の幼なじみの礼さんはまだ、他の世界で生きている。
礼さんは。
他の誰でもない、私の世界の、礼さんは。
「私の恋人なんかじゃなかったけど。
小さい頃からずっと一緒にいて。
何をするにも一緒にやって。
時々一緒に怒られて。
一個年上だからってずっと年上風吹かせて。
たくさん勉強教えてもらって。
同じ大学に同じ学年で合格して。
一緒に喜んで。
私と一緒に大学通って……
……いつもいつも一緒にいたよ」
私の、誰より近かった人。
きょうだいのように長い時間を過ごし、どんな友人よりも近くにいた。ときどき他の友人たちに冷やかされて、それが元で喧嘩もして、けれどそれでも完全に離れることはなかった。
あの世界の、礼さんは。
今、何をしているのだろう。
「……亜由美」
礼さんは、私の名を呼んで。
椅子から立ち上がると、そっと、私を抱き寄せた。
「礼さん……」
そして彼は。
ゆっくりと、躊躇いがちにではあったがしかしはっきりと。
こう言った。
「帰ってやってくれ」
礼さんに抱きしめられながら、私は目を見開いた。
私の顔を見ないまま、囁くように、彼は。
「お前の『礼さん』を、お前の誰より近くにいさせてやってくれ」
私の『礼さん』を、と。
自分ではなく――今、私の目の前にいる彼ではなく。
彼は言った。
「年上風吹かさせてやってくれ。兄貴面させてやってくれ。
うざったいことも言うだろうし、つまんねえことでぐちぐち言うこともあるだろうし、それが元でお前と喧嘩してへこむだろうけど、それでも近くにいてやってくれ。
それでお前に誰か男が近づいてきたら『俺は認めねえ!』って叫ばせてやってくれ。
……そうやって、お前の『俺』の、近くにいてやってくれ」
私の幼なじみの、二十年近くの月日をともに生きてきた私の礼さんの近くにいてほしいと。
そして礼さんは少しだけ私を離して、私の目を、真っ直ぐに見た。
そうやって言った礼さんは。
頬に涙が流れ。
そして声は震えていた。
……けれど彼は笑っていた。
他の世界の私を見て。
「俺は、どんな世界でも絶対に、お前のことを好きになるから」
だから。
「お前は『お前の世界の俺』の近くにいてやってくれ」
私の世界の自分まで、悲しませないでやってくれ、と。
そうして彼は微笑んだ。
失ったものを背負いながら。
「俺は俺の亜由美を想い続けるから」
――そのとき。
私の体が、動いた。
「……え」
私の両腕が礼さんの首に回される。
――けれどそれは私の行動ではなかった。
その行為に、礼さん以上に私自身が驚いて、しかしその驚きなど構わないままに、私の腕は勝手に礼さんを抱きしめる。
誰。
尋ねる。
私のそれは言葉にならず、返事もなかった。
それでも。
それでも何となく、気づいていた。
だから私は抵抗しようとせず、ただ『彼女』に貸しばかりを作っているなと思った。
貸したものたちはいつか返ってくるのだろうかと、そんなことだけを思った。
「礼」
私の唇から彼の名が漏れる。
けれどそれも、私の言葉ではない。
礼さんが目を見開くのが、私にはわかった。
「亜由美」
礼さんが私の名を呼ぶ。
けれどそれはきっと、私の名前ではない。
私の頬が、嬉しそうに緩む。
けれどそれも、私の笑顔ではない。
礼さんの腕が固く私を抱きしめる。
「亜由美」
彼がもう一度、呼ぶ。
それに答えるよう、私は――『彼女』は。
もっと強く、腕に力を込める。
言葉では表せない、すべてを伝えようとして。
そうして『彼女』は、彼に贈る。
愛した彼へ、『彼女』の想いを。
ありがとう。
――そして私は、はじけた。
・
・
・
「ああ……」
――――腕の中の『彼女』は。
次の瞬間にはもう、彼の視界にいなかった。
その一瞬の中に消えていった。
だから確かめようもなかった。
世界は彼に、確かめる間すらも与えてはくれなかった。
けれど彼は気づいていた。
「……ああ」
ありがとう、と。
告げた彼女は他の世界の誰かではなかった。
それは確実に、『彼の愛した彼女』の言葉だった。
「――ああ」
けれど。
腕の中に残る温もりは、少しずつ薄れていく。
『彼女』がいた記録が消えていく。
首に回された腕の感覚も。
耳朶を震わしたあの愛しい声も。
「……ああ、ああ――ああああああ」
縋るように顔を上げる。
けれどそこにいるのは彼だけで、誰も彼を見ていなかった。
そうだ。
望んだ瞳はそこになく、彼はようやく理解した。
もういない。
彼の愛した彼女はもう、この世界にはいなかった。
「あ―――――ああ、ああああああああああああああああっ!」
そうして彼は、大声を上げて泣き出した。
『彼女』のいない世界の中で。




