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十一 イリーガル・ムーブ



「……すが、の」

 乾いたその声は礼さんのものだった。

 けれどそれはきっと、彼には届いていなかった。

 私の顔を見て、彼の表情は瞬時に固まった。

 青白く。

 血の気が引いていく。

「うそ、だ」

 そしてそれが、何よりも雄弁に――

 真実を語っていた。

「嘘だ――嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁっ!」

「何が嘘なの?」

 目を剥いて叫ぶ彼に、私は涼しい声で言ってやる。

 けれどそれで、動転した彼の感情が落ち着くことはない。

「おまっ、お前は死んだはずだっ! 俺が、俺が、だって――おれがっ!」

 喚くその姿は、ひどくみすぼらしいと思った。けれど私はそんなことは言わず、ただ笑顔のままで彼への恐怖を植えつける。

 そのとき一瞬だけ、今の礼さんの顔を見たいと思った。彼は今、一体どんな表情をしているのだろう。彼の恋人を殺した友人を前に、彼の死んだ恋人が彼の友人を殺人犯として追い詰める光景を前に。

 けれど彼は私に背を向けていて、それを見ることはできない。

「そうね。あなたは私を殺したよ。確かに私は殺された。

 でも私、死にきれなくて――だからあなたを探しに来たの。

 私を殺したあなたのことを」

 半分は本当で、半分は嘘だ。

 けれどそんなことを説明しても、きっと彼には理解できない。

「うそだ……お前が、ここに……どうして、そんな、なんで……生きて」

「不思議な人。私が生きているだなんて。

 私が死んだことはあなたが一番よく知っているのに」

 小首をかしげて、笑って見せる。

 と。

 すう――と、息を吐く音がした。

「あ……ははは。そうか、そうだ。わかったよ」

 呟かれたそれは、熱を帯びていて。

「もういちど、ころしてやればいいんだ」

 ああ、狂ったな。そんなことをぼんやりと私は思った。

 彼の眼はもう完全に正気を失っていた。恐怖にか、それともその罪の重みにか。それはわからないけれど。

 礼さんも、そろそろここにいるのはまずいと感じてきたのだろう。彼は私の方を向いて、声を上げた。その表情はいつもの礼さんだった。

「亜由美、逃げ――」

「動くなぁッ!」

 けれど。

 彼がそう叫ぶから、私も礼さんも動きを止めざるを得なくなる。

 彼は叫んで、自らの持った鞄の中に手を差し入れ――そして取り出したのは、鈍く光る包丁だった。

 そして、刃の先は私を向き。

「動くな。動くなよ」

 震える声で息荒く、私を睨みつけている。包丁を握る手は震え、そしてその刃もまた、小刻みに。

 そのとき私は、なぜかそれに既視感を覚えた。けれどそれは紛れもない錯覚だ。例え誰かがそれと同じ光景を視たとしても、それに立ち会ったのは私ではない。

 私は震えそうになる喉を必死に耐えて、平然と笑ってみせる。

 それが私に与えられた配役だから。

「安心して、動かないよ。

 あなた相手に恐れることなんてあるはずがないから」

 彼をかつて追い詰めた彼女のように、意思だけは毅然と。

 けれど私は彼女ではなく、その立ち姿も偽者だったから。

「死ね、……死ね」

 私の体はただ、恐怖に縛られていた。

 だから。

 刃を持った彼が駆けてきても。

「死んじまええぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 ――私は恐怖で動けない。

「亜由美ぃっ!」

 礼さんに。

 私が『もう一度死ぬ』瞬間を見せたくはない。

 だから逃げないと、と思った。

 でも。

 足が縛られたように動かない。

 耐えていた代償がこんなところに来た。

 動けって、私。

 けれどそれができない。

 全身が震えている。

 殺意と恐怖に当てられ竦んだ私の体は自由にならない。

 動けない。

 このままじゃ私まで、死ぬ。

 ――そう思った瞬間、私の視界の鈍い輝きが消えた。

 それは礼さんが、私の目の前に立ったから。

「礼さん!」

 まるで私の盾になるように。

 礼さんは、静かに言った。

「大丈夫」

 守ってくれると。

 彼のその言葉には強い信念があった。

 けれど、違う。

 そうではない。

「礼さん、逃げて」

 何が大丈夫なものか。

 視界が滲む。

 逃げて。

 礼さんまで死んだら駄目だ。

 礼さんが死ぬために私はここにいるのではない。

 そうではない。

 私はあなたの。


 ――『あなたのために私は』


「逃げて!」

 けれど。

 叫ぶも彼はそこから動こうとせず。

 勢いのついた刃物は加えられた力の通りに空気を切り裂いて。

「礼さん、礼さん礼さん礼さん礼さぁぁぁぁぁぁん!」

 そしてそれは力のままに目標物を切り裂――



 ――けれど。

 その刃の先が礼さんに触れることはなかった。

「はいちょっとごめんなさいよっと」

 それは、突然現れた男子学生が一人、彼の刃を持った手を右手で引き止めたから。

 この場に似合わぬ暢気な口調でそう言って、その男子はくわえていた煙草を左手で掴むと、菅野の刃物を持った手に押し付ける。すると菅野は、悲鳴を上げて刃物を取り落とした。

「……えっ……」

 突然の助っ人と展開に、私の脳が着いていけない。

「シガーさん!」

 彼は菅野氏の刃物を遠くに蹴りながらそう叫んだ。すると、もう一人彼の仲間らしい男子が駆けてきて、暴れる彼を取り押さえる。その姿には見覚えがあった。そしてその呼び名にも。――ルナさんの所属するサークルの、ルナさんの先輩。

 我に返った礼さんもそれに加担して、菅野が私に近づかないようにしてくれる。

「菅野秀明! その男子を刺そうとするお前の写真を撮ったぞ。もう逃げられないから覚悟しておけよ。そこに落ちている刃物を調べれば、今までお前がやってきたことの証拠がすべて出るだろう!」

 シガーさんがそう怒鳴ると、菅野は暴れるのをやめた。

 私が何も言えぬままに立っていると、背後から左腕を、ぐいと引かれた。何ごとかと振り返ろうとしたそのとき、つばの大きい深い帽子を突然被せられた。

「わっ!?」

「真柴さんですね! こっちです!」

 そして声が飛んでくる。声の発信源を見れば、背丈は私と同じくらいの女子学生。

 彼女は私の返事など待たずに、私を引いて駆け出していく。

「あなたは?」

「ツルさん――上水流さんのサークルの後輩です。人が集まってくる前に、あなたをなるべく人の目に触れないようにして、どこか人のいない場所へ匿うようにと言われました」

 尋ねると、彼女は小声で鋭く、足を止めないままにそう答えた。

「お連れの男の人なら大丈夫です、さっきの男子たちも私たちの仲間なので」

 私が見つかると大変だからと、ルナさんは私の先導まで配慮してくれたらしい。いろいろと迷惑をかけているなと、心の中だけで小さく謝っておく。

 そうして彼女に連れてこられたのはサークル棟。

 ルナさんは彼女に私のことをどのくらいまで教えたのだろう。そんなことが少し気になるが、ルナさんのことだから上手いこと誤魔化しているのだろう。

 連れて来られたのは、ルナさんの所属するサークルで、先日シガーさんとお会いしたあの部室だった。

 ドアを開ける。それにかけられた札に『Patty-Cake』と書かれていたことを私は今知った。それがきっとこの部室の持ち主の団体なのだろう。けれど私はそのサークルを知らなかった。名前から察するに、きっと料理か何かの活動をしているのだろうけれど。

 彼女は私を部室の中に通すと、ソファに座らせた。そして紅茶と菓子を出してくれる。

「真柴さん、大丈夫ですか?」

 そういう彼女は心配そうな表情をしていた。身体に怪我がないことは一目瞭然で、聞くまでもないことだから、彼女はきっと精神的なものの方を気遣ってくれているのだろう。

 確かに刃物を向けられることに慣れている人間なんて、そういない。けれど私は――ここ数日の私には、想像を絶する出来事ばかりが起こっていて。

「ええ、まあ。大丈夫です。……ここしばらくいろいろなことがあったから、胆だけは据わってしまったみたいで」

「そうですか……あ、良かったらどうぞ。

 甘いものを取るとリラックスできるってのは、科学的にも実証されてるらしいですし」

 そうして差し出されたのは、色とりどりの包み紙に包まれたチョコレートだった。包みを解いて、ひとつ口に入れると、とても甘いそれは舌の上でゆっくりと溶けていく。

「美味しい」

「良かったです。……安物ですけど」

 素直に感想を言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 そして、それからしばらくもしないうちに扉が開いて、ルナさんが来る。

「亜由美さん……ああ、いるな。良かった」

「お茶を飲んで頂いていました」

 そう言って、彼女は笑って。

 それからゆっくりと、ソファから立ち上がった。

「それじゃ、私行きますね。……あ、講義完璧に遅刻だ」

「授業あったのか。すまない」

「いいえ、誰かにノート見せてもらいますから大丈夫です。もし間に合わなかったら代返もしてくれるように頼んでおきましたから」

「そうか。手を取らせて申し訳なかった。今度何か奢るよ」

「このくらいのことじゃ、貸しにもなりませんよ」

 言って、困ったように笑った。刃物を持った男すら出てきたあれを「これくらいのこと」と言いきれる彼女に、少々の驚きを覚えるが。

 ルナさんを見ると、彼女もまた、苦笑していた。

 その表情を見て楽しそうに声を上げて笑うと、その女子学生は部室を出て行った。彼女の名前を聞き忘れたことを思い出したけれど、きっと聞いたところでそれを生かすことはないのだろうと考えて、ルナさんに彼女のことを訊くことはしなかった。

 代わりに、尋ねる。

「あのう」

「ん?」

「こちらのサークルって、何なんですか?」

 と、彼女は軽く目を見開いたあとに、ゆっくりと微笑んで、私に答えを返してくれた。そういえば詳しい説明をしたことはなかったな、と最初に呟いて。

「パタケーキ・サークル。『パタケーキ』『ケーキ』なんて呼ぶ人間も多いが。

 世界中の遊びとかを集めて調べて、娯楽と心理の関係性を研究するという活動の、比較的インドア派のサークルだな。……表向きは」

「表向き?」

「なぜかは知らないが、昔から、変人やトラブルメーカーが多いんだ、うちのサークル。そのせいで、いろいろと走り回ることが多い。

 問題発生、諜報活動、情報解析、そして事件解決……歴代の中でそんなことをしているうちに、本来の活動ではない活動統制までもができるようになってしまった」

「ああ……だから」

 今回の一件について情報をこれだけ集められたのも、あの菅野氏を取り押さえられたのも、証拠を取ることができたのも、そしてあの場から、私を逃がしてくれたのも。

 彼らの『昔からの積み重ね』を、私のために活かしてくれたからなのか。

「パタケーキ・サークル。あなたの世界に帰ったあと、何か困ったことがあったら尋ねてみるといい。部室の場所は違うかもしれないが、きっとあなたの世界にもあるだろう。……変人たちの巣なんてものは、得てして、どんな世界のどんな場所にも出来るものだ」

 不思議な、奇妙な、悪く言えば変な人たちのサークル。そんなものがこの大学にあるなんて知らなかった。もしもこの世界だけじゃなく、私の世界にもあるなら、帰ったときは訪ねてみたいと強く思った。

 私の世界にも。

 あるのだろうか?

「――そうだ、礼さんと、取り押さえて下さった方に、怪我は」

「安心してくれ、あいつらも無事だ。あなたには怖い思いをさせてしまって、申し訳ない」

「いいえ。……皆さんが無事なら、それで。

 こちらこそありがとうございました。いろいろと」

「いいや。こちらこそ、協力をありがとうと言うべきだ。

 奴は警察に運ばれていったよ。

 聴取は礼にさせる。君が出て行くと面倒なことになりそうだからな、あの場にいたのは礼と奴と、私の仲間だけということにした。

 しかし、少々灸をすえ過ぎたようだな。虚ろな目で、幽霊が俺を殺しに来ると延々ほざいているようだ――ま、殺人犯相手にお手柔らかにしてやる義理はないが」

「警察での証言ができなさそうですね。どうなるんでしょう」

「それは私たちが考えることではないよ」

 言って、ルナさんは先ほどの女子学生が置いていった紅茶を一口飲んだ。

 それから、ゆっくりとテーブルの上にそれを戻して。

「しかし」

 顎に手を当てて、ふうむ、と唸る。

「謎が残ってしまったな」

「謎?」

「ああ。少なくとも我々にとっては、何をおいても解くべきだった謎だ」

 殺人事件の犯人よりも?

 私が首を傾げると、彼女は表情ひとつ変えないまま、私を真っ直ぐに指さした。

 そして彼女が言うことは――


「あなたはどうしてまだここにいる?」




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