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九 砂の城――Reconstruction



 それから電車に乗って、礼さんと別れ。

 ルナさんの家に帰ってきたときには、彼女の顔色はすっかり元に戻っていた。

「気分は大丈夫ですか?」

 ルナさんの部屋に戻って私が尋ねれば、返ってくる表情も声色も、いつもと何も変わらぬもの。

「うん、たぶんバスに酔ったんだろうな。大丈夫だ。問題ない」

 確認とばかりに彼女は、壁の鏡を見ながら自分の頬の色を確かめる。

「ならよかったです。……でも少し休んだ方がいいですよ」

「いや、大丈夫だ。もともとそれほどひどい酔いでもなかったし」

「けど――」

 私が引かずにそう言うと、彼女は微笑んで、床に置いてあるオーディオに手を伸ばした。

 流れてきたのは、古い洋楽。

「だったら、気分転換に少しだけ音楽でも流させてもらおうかな。

 この間、レンタルショップで借りてきたんだ」

 タイトルまでは覚えていないけれど、私も聴いたことがあった。女性歌手の高音が耳に心地いい。

「古い曲、好きなんですか」

「そういうわけでもないけどな。

 この間後輩が口ずさんでいて、また聴いてみたくなったんだ。それで、借りてきた」

 はて、どんな内容の歌詞だったか。思い出そうとするけれど、そこまで好んで聴く歌でもなかったせいか、まったく思い出せない。確か深い深い愛の歌、慈しみの歌だったような気がするけれど――

 首を傾げてみても、その記憶が私の頭から転げ出てくることはなく、眉根を寄せてみても同じだった。

 その私の仕草が面白かったのか、彼女は楽しそうに笑い、そして。

「それに、今はやすむよりも、頭を動かしたい気分だな、どちらかと言えば。

 どうせだから、集めてきた資料の整理でもしようか」

 言うと彼女は愛用の鞄を床にひっくり返した。その中からメモ書きとノート、それから何枚かの写真を取り出した。カーペットの上を滑らせて、それらを私のほうに差し出してくる。見てもいいという許可のしるしか。

 それに甘えて私がノートを開くと、そこにはいつの間にまとめたのか、シガーさんがくれた情報がすべて整頓されていた。メモ書きと写真はシガーさんに貰ったものだ。

「私と礼が彼女を発見したときの話は……あなたにもしたんだったよな。それなら現時点での資料はこれですべて揃ったことになる。

 亜由美さん、何か思いつくことはないか?」

「そうですねぇ……」

 呟いて……ふと。

 本当に、かすかに。

 何かが私の頭を過ぎった。

「……?」

 てんでんばらばらにある情報はだんだんとだんだんと、私の頭の中で収束して――

 そして私の中に、ひとつの可能性が生まれる。

 ――まさか。

 それなら多くのことにつじつまが合う、けれど。

 その考えの馬鹿馬鹿しさに、私は思わず笑みを浮かべてしまう。静かに流れるオーディオの歌声すらも、私を少しだけ笑ったような気がした。

 まさか、ねえ。

 それで私は終わらせようとした。そんな下らない憶測に過ぎないものを、推測と言うことすらおこがましいそれを、一瞬の気の迷いとして切って捨てようとした。

 しかし、

「どうした?」

 ルナさんはそれを許さなかった。

 私の表情のほんの少しの変化、それに目ざとく気づいて彼女はそう言った。

「あ、……いえ」

 私は弱々しく笑って、かぶりを振った。

「ちょっと思いついたことがあったんですけど、どうしようもないつまらないことで。気にしないで下さい、すみません」

「へえ」

 けれど彼女は、それに気づいた。

 私の考えたことに気づかないほど、彼女は馬鹿ではなかった。

「あなたの考えたあなたなりの『推理』。それが聞いてみたい」

「つ、つまんないですよ。推理なんて大それたことじゃないです」

 慌てて否定する。

 けれど彼女はそれを一笑に伏すことを良しとしなかった。

「いや。亜由美さん、聞かせてくれ。推理じゃないというなら推測でいい。それでも足りないと言うのなら空想と言おう。

 ――その中で、あなたの気付いた犯人は誰になった?」

 逃がさない。そのとき私は、彼女の瞳にそう言われたような気がした。

 それは錯覚かもしれない。けれど私はそれを語るまで、確実に逃がしてもらえないのだ。そしてそれは、きっと彼女の好奇心のなせる業。

 私は部屋中に視線を彷徨わせるが、今ここには私とルナさんしかいない。私に助け舟を出してくれる人は、他には誰もいなかった。

 だから。

 私は語るしかなかった。

「犯人は……」

 オーディオの声が、うるさいと思った。

 けれど彼女は、オーディオは、誰かが止めなければ止まってはくれない。

 タイトルすらも思い出せないような古い曲をBGMにしながら、私は、衝撃をほんの少しでも与えれば呆気なく崩れていくような、私の、危うい砂の城のような『推理』を。

 そしてそれから導き出される犯人を、落ち着かない声で、口にした。

「……ルナさん、です」

 私のその、突飛な告白に。

 彼女は一瞬だけ、目を大きく見開いて――

「へえ!」

 けれど彼女は怒りもしなかった。どころか笑って見せた。

 そしてルナさんが上げたその感嘆の声は、私が今まで聞いた彼女のどんな声よりも、嬉しそうなものだった。

 しかし私は――なぜか。

 その笑みに背筋を舐められるような恐怖を覚えていた。

「面白いな」

 ぞくりとした悪寒を覚える私に、彼女はそう言った。

 そしてまるで捕食者のような表情で、面白い獲物を捕まえたと言わんばかりの獣のように、ルナさんは真っ直ぐに私を捕らえ、

「その推測。聞かせてもらってもいいだろうか」

 言った彼女のその瞳は、私に『ノー』の答えを許さない。



「……まったくの別なんじゃないかって考えました」

 まず私は、そう言った。

 けれど、主語がない。言ってから私はそのことに気づいた。

 あとから付け足すように、こう続ける。

「真柴亜由美殺人事件と、通り魔事件は、です」

「その理由は?」

 彼女の目はそのとき、らんらんと輝いていた。

 きっとそれは私の先入観による錯覚なのだろうというのは理解している、けれど納得できるのとは別の問題だ。

 私は息を吸った。ひい、と喉の奥で音を立てるのは、恐怖に震えているからだ。

 今更怖くなってきた。もしも私のこれが当たっていたとしたならば、今私の目の前にいるのは私の恩人ではなく私の殺人犯だ。そして何食わぬ顔をして自分の殺したはずの人間を家に招いてすらいた、非常に厄介な相手だ。

 ……けれど今更遅かった。

 私はすでに、話し始めていたから。

「明らかに――

 真柴亜由美殺害は、殺意を持って行われているからです」

 彼女の瞳の力に負けないように私は彼女を見返してみせる。

 目の前にいるのはただの女子学生だ。そう自分自身に言い聞かせる。

「それはつまり?」

「他の被害者はみんな腕や足を刺されています。すれ違いざまに、力もなく。重くても数日で退院できる程度の傷です。

 それと合わせて考えると、真柴亜由美の受けた傷は明らかに甚大です」

 ルナさんを睨むように見る。

 頷いて、そのまま顔を伏せたルナさんの顔は前髪に隠れて私からは伺えない。私はそれを少しだけ安堵に感じた。彼女の表情が恐ろしくて堪らなかった。それがたとえ怒りであっても侮蔑であっても。

「だから、まったく違ったんです。傷害事件と殺害事件は別だったんです。

 真柴亜由美殺害は、たまたまそれに乗じて行われただけで。

 傷害事件の犯人は私にはわからない。けれど――たとえば殺人事件の真相がそうだとしたら!」

 息を吸って、喉がまた、ひぃ、と音を立てた。

 それはきっと、私が今押さえ込んでいる私自身の悲鳴。

「あなたは最初に『自分が真柴亜由美を看取った』と言った。

 だったらあなたが真柴亜由美を傷つけることもできたのではない? 亡くなる直前に血に塗れた真柴亜由美を見つけた、助けようとしたが無駄だったと言うこともできるんじゃないですか!」

 言い切って――私は、ルナさんを見た。

 彼女は伏せていた顔を、ゆっくりと上げる。

 ルナさんは、怒ってなどいなかった。

 ましてや蔑んでもいなかった。

 けれどその瞳だけは、ただ蛇のように輝いて。

 そしてその蛇の瞳に私を映して、彼女は私の名を呼んだ。

「では聞こう。『犯人』は『犯人』らしく。

 なぁ、亜由美さん。

 ――『なぜ私は真柴亜由美を殺さなくてはならなかった』?」

 それは。

 それは――

「ルナさんが礼さんを好きだったから」

「……私が? 礼を?」

 繰り返す。

 私は頷いた。

「あなたにとって、礼さんの彼女は邪魔だった。だから――」

「だから殺した、と」

 そう彼女は呟き、顔を伏せて、くっ、と笑った。それが皮肉なのかそれとも本気で吹いたのか、どちらなのかは、少々混乱しつつある私の頭では判断できない。

 彼女は薄笑いを浮かべた。

「だとしたら、どうして私は『あなた』を殺さない? 憎い真柴亜由美さんと同じ顔をし、同じ性格をしたあなたのことを。

 あなたを助けるふりをして、こうやって私の家に招いているのだから、食い物に毒を入れたり交通事故に見せかけたりと、あなたをどうにかする方法はいくらでもあるはずだ」

「私は礼さんの彼女じゃないから。礼さんが好きなのは私じゃないから。

 そうじゃないなら生かしておいても私はルナさんの邪魔をしない」

 もしその関係が変わったならばそのときは、わからないけれど。

 彼女はゆっくりと頷いた。

「なるほど」

 そうして一度顔を伏せ――それからゆっくりと上げられたとき。

 彼女の顔は、笑っていた。

 笑っていた。

 けれどそれは、とても底冷えのする笑顔だった。

 ……そして私はそのとき、初めて。

 自分は今、敵に回してはいけない人を敵にしたのだと、心から感じた。

 けれどそれはもう遅い。彼女はその炯眼で私を見た。

「…………っ!」

 蛇に睨まれた蛙のようになった私は、腰が抜けて、動けない。

 ルナさんはそんな私の反応を見ながら、ベッドの下に右手を入れて――そして元のように取り出したとき。

 彼女の手にはひとつの黒いものがあった。

 それは無骨な鉄の塊。

 それが何かを理解したとき、

「……ひ……っ!」

 声になりきらない悲鳴を私は洩らした。

 彼女の手にあるそれを、私はテレビドラマで見たことがあった。詳しくない私には、種類なんかはわからない。けれどそれは、紛れもなく。

 彼女は相変わらず感情を他人に悟らせない声で、呟くように言った。

「気づかれては仕方ないな」

 瞳は、冷たく。

 荒くなる呼吸を押さえて、私は震える喉で、声を絞り出した。

「じ……じゃあ」

「そうだよ」

 彼女の笑顔の中の眼は笑っていない。

 私の上下の歯がぶつかり合って、がちがちと音を立てる。

 叫んで助けを呼ぶべきだ。私の頭の冷静な部分がそう言った。けれど恐怖に縛られて、私の喉は声を出せない。助けてと叫びたい。

 礼さんの顔が浮かぶ。

 助けて。

 けれどそんなことがあるわけはない。

 彼が助けに来ることはない。

 彼はここにいないのだから。

「すべてあなたの言ったとおりだ、亜由美さん」

 ルナさんはいつもと同じ口調で、そう言った。

 その、感情があまり表に出ない声で。

「そしてそれを知ってしまったなら、あなたも生かしておくわけにはいかない」

 弾を込めた銃を真っ直ぐに構える。黒い銃口が私を見る。助けて、とかすれた声で私は言うけれど、彼女はそんなものには構わない。

 彼女は頭のいい人だ。だから私に逃げる暇も与えない。

 温情措置も与えない。

 ルナさんは、ただその冷たい瞳のままで。

 私の胸に向けた拳銃のトリガーを、迷わず引いた――

 と、同時に。


 ぽん。


 そんな軽い音がした。

「……え……?」

 そして私の胸元に、衝撃。

 ……けれどそれはとてもとても小さくて、床に落ちるところころころと転がった。

 コルクの弾。

 それはどう見ても銃弾なんかではなくて。

「本物だと思ったか?」

 はっと顔を上げると、ルナさんは、にやにやと笑いながら私を見ていた。

 右手で銃をくるくると回しながら、

「去年、サークルのクリスマスパーティの余興で友人が使ったのを、貰ったんだ」

「お、も、ちゃ……?」

 掠れた声で、真っ白な頭のままで言うと、ルナさんは一つ頷いた。

「おもちゃ屋で売っていたのを改造して作ったらしいんだが、よくできているだろう?

 とは言ってもあのときは、これよりシャンメリーのコルクの勢いの方が酷くてな、皿は割るわ部屋中を飛び回るわで大変だった。

 うん、亜由美さん、理に叶った推理だったよ。久々に私も興奮した。でもな、こういうときは、まず何をおいても逃げ場を用意しろ。そうじゃなきゃ大変なことになるぞ。

 やっぱり亜由美さんは亜由美さんだな、あなたはいつもそうやって詰めが甘……

 ……え?」

「ふ、ふぇっ」

 ルナさんのそんな言葉を聞いていたら、緊張の糸が途切れて、ぽろぽろと涙が落ちてきた。

 追求の緊張と、鋭い眼の冷たさと、銃口への恐怖と、ルナさんが犯人でなくてよかったという安心感が混ざり合って、頬を伝うそれが止まらなくなる。

 それに慌てたのはルナさんだった。

「あ、ああ、泣くな。悪かった、私が悪かったから。

 女の子に泣かれるとどうしたらいいかわからないんだ、私」

 手元に置いていたタオルを握って、私の頬を荒々しく拭く。けれど私の涙はなかなか止まることを知らなくて、けれど先ほどまで冷酷な人間を演じていた彼女のその慌てぶりが面白くて――私は気づくと。

 泣きながら笑っていた。

 こみ上げてくる笑いが止まらなかった。



 それからしばらくして。

「だ、大丈夫か? 落ち着いたか?」

 鼻を鳴らして、それでもひとつ頷くと、ルナさんはほっとしたような表情をした。

 森羅万象あらゆるものに打ち勝てそうな彼女なのに、女の涙に弱いのだから、人は見かけによらない。礼さんでももうちょっと落ち着いた対処ができる、と思う。

「なら良かった。うん。悪ふざけが過ぎた。すまなかった」

 どうやら本気で反省しているようだった。

 頭を下げるルナさんに、私はかぶりを振った。私が驚きすぎてしまったのがいけない。ただの学生のルナさんが本物の拳銃など持ち合わせているはずがないのに――けれど心のどこかに、なんとなく、ルナさんなら持っていても不思議ではないような考えがあった。

 その考えを礼さんが聞いたらきっと笑って、無理もない、とでも言っただろう。

「……じゃ、真面目に否定をしようか。

 まずは、そうだな。あと出しになるんだが。

 亜由美さんが刺されたとき、私は研究室にいた。正確には、礼と二人で、研究室から亜由美さんとの待ち合わせ場所に向かっていた」

 つまり彼女には、アリバイがあるということだ。

「それから彼女の致命傷を作った刃物は、他の通り魔被害者の受けたものとほぼ同じものだろうと言われている。私もあのとき手荷物を調べられたが、刃物は、カッター一本持っていなかった」

「あー……」

 私の推理は間違っていたということだ。

 そしてルナさんは、胡散臭いものを見るような目をした。

「それからなんだ、礼が好き?」

 私もその動機はちょっと有り得ないかなーとは思っていたけれど、

「それは、ない」

 やっぱり彼女は、きっぱりはっきり否定した。

「ないですか」

「万が一にもないな。京が一くらいならもしかしたらあるかもしれないが」

 兆の次、それでも『もしかしたら』レベル。

「私は略奪愛なんて柄でもないし、そもそもお互い好みじゃないし、友達以上に発展することは死んでもないだろう。

 それにもし私が奴のことを好きだったら――」

 心外だがとでも言いたげに、そして少し不機嫌そうに。

「シガーさんが黙っていると思うか?」

「……それもそうですね」

 ルナさんにべた惚れの先輩が。

 私が頷くのを見て取ると、彼女は軽く肩を竦めて「証明終了」と言った。

「ま、観点は悪くなかったな。……だが、気をつけろ。もし私が犯人だったら、あなたは今ごろこの世にはいなかった。

 あちらの亜由美さんもそうだったけれど、あなたには詰めが甘いところがある。だからあなたは、まず逃げ場を確保しろ。どこまで完璧な理論を打ち立てても、下手をしてすべて崩したら意味がないぞ」

 と、そこまで言って――ふと宙を見た。

 そして思い出したように、

「喉が渇いたな。亜由美さん、何か飲むか?」

「あ、はい、頂きます」

 私が答えれば、彼女は少し笑って、

「麦茶と果物でも持ってこよう」

「じゃあ私も、何かお手伝い――」

「いや、泣かせた侘びだ。私がやろう。

 亜由美さんは、その間にもう一度さっきの『推理』の建て直しでもしていたらいい。筋は悪くなかったぞ」

 そう言うと立ち上がって、部屋から出て行った。

 扉が閉じれば、部屋の中はしんと静まり返る。オーディオの再生が終わっていたことに、私はようやく気づいた。

 ルナさんがカーペットの上に置きっぱなしにしていったおもちゃの拳銃を、そっと持ち上げてみる。塗装はとても丁寧で本物のようだったが、実際触れてみると全部プラスチックでできていて、冷たくもなかったし、金属特有の重みもなかった。

 見れば見るほど子どものおもちゃだ。こんなものに私は泣かされたのかと思うと、違う意味で泣きそうだ。自分の情けなさとか、呆れとか。

 ため息をついて――推理か、と呟いてみた。

 証拠も何もないのだから、推理と言えるほど高尚なものではなかった気がするが。ただの憶測、もっと悪く言えば妄想だ。それに私はルナさんを、ただの妄想で犯人扱いしたのだから、何度土下座しても足りない。

 そうだ、私はルナさんにひどいことをした。突然この世界に飛び込んできた得体も知れない私を、ここまで庇ってくれているのに、私は彼女を殺人犯だと言ったのだ。

 けれど彼女はそれを責めなかった。そしてそれを、筋がいいとすら褒めてくれて。それに対する一番の罪滅ぼしは何だろうと思うけれど、それはひとつしかない。――彼女の言った通り、考えることだ。

 私はひとつため息をついた。そして、帰ってきたら謝ろう、とそれだけを思ってもう一度、考えをめぐらせる。

 通りすがりに左腕を切られた弓崎あかり。

 腿を切られた天音彼方。

 正面から腹を一突きされた真柴亜由美。

 背後から右肩を刺された金澄紗枝。

 そして彼女らは――

 と、そこまで考えて。

 私が今までに知った彼女らの情報を反復して考える。と、少しずつ少しずつ、その違和感が確固たるものになっていく。

 確実に、おかしい。

 ……そのとき、目の前に――ルナさんの先ほどまでいた場所に、何かが落ちていることに気づいた。

 何だろう、と思って手を伸ばす。薄紅色のそれは、四つ折にされた一枚のメモ用紙だった。ポケットから落ちたらしい。先ほど出し忘れたものだろうか?

 私的なものだったら見なかったふりをしようと思って、私はそれをゆっくりと開く。

 そこに書かれていたのは――

 とてもとても短い一文だった。

 それは、そこにしるされたものは、ただの決意だった。

「……だったら」

 呟く。

 私は間違っていない!

 心の底にそれを叫ぶ私がいる。

 犯人の狙いは?

 だったらなぜ?

 私は考える。

 私は。

 そうだ。

 ――『彼女は私だ』。

「……っ!」

 気づいたその瞬間。

 喉の奥からこみ上げるものを感じて、気づくと私は胃の中のものを吐いていた。

 部屋のドアが開く音がして見やると、そこにはルナさんが立っていた。倒れて嘔吐する私を見、彼女は手に持ったものをその場に音を立てて荒々しく置くと、顔色を変えて駆け寄ってきた。

「亜由美さん!?」

「っ……ご……ごめんなさっ……

 ……っっ!」

 駄目だとわかっていても、こみ上げるものは止まらない。

 ルナさんは起こりもせずに、ただ背をさすってくれた。

「謝らなくていい。出るものは全部吐いてしまえ。何も気にするな。

 何か悪いものを食ったのかもしれない。体の自然な反応に逆らうのはよくないぞ」

「う……うぅっ、うぅぅっ……」

 ごぽ、と喉より更に奥で音がして、またこみ上げる。

 彼女は私を安心させるように、大丈夫、ともう一度呟いた。擦ってくれる背に温かさを感じる。

 胃の中が空になって、吐くものがなくなって、私はようやく落ち着いた。残った苦しみを吐き出そうと、体が自然と荒い息を繰り返す。ルナさんはその間に濡れタオルを持ってきて、何よりも先に、私の汚れた口を拭いてくれた。

 彼女はあごに手を当てて、ううんと唸った。

「しかしどうしたんだろう。何かに中ったんだろうかな。

 腹痛の薬が効くだろうか――」

 けれど。

 私はそれを遮って、かぶりを振った。

 強く強く。

 ――耳の奥から、頭の奥から、歌が流れてきた。

「るな、さん」

 その歌を聴きながら、私は彼女の名を呼んだ。

 ルナさんの、焦げ茶色の真っ直ぐな瞳が私を向く。

「亜由美さん?」

 彼女の瞳の中に私がいた。

 その温かさに、涙が零れだして、止まらなくなる。

 それでも彼女に伝えなければならないことがあった。

 私は未だ震える喉で、ゆっくりと息を吸った。

 そして吐く息に、言葉を乗せる。

「……わたし、は」

 いや。

 違う。

 私ではない。

 けれどそれは私の。

 私は。

 唇が震える。

 薄紅色の手紙を固く握ったままの手で、私は彼女の胸元をつかむ。

 そしてその手も、小刻みに。

 何から言ったらいいのかわからないけれど、何かを伝えなければいけないことはわかっている。私は彼女に。私は。

 ……けれど彼女は。

 とても頭の良い人だった。

「ああ――」

 だから、私が何を言えなくても。

「……そうか」

 言って彼女は、微笑んだ。

 それはとても悲しげに。

「気づいたんだな」

 彼女も泣き出しそうな表情をしていた。

 けれど彼女は強かった。だから彼女は泣かなかった。

 耳の奥で聴こえる、名前も思い出せないあの歌は、細く気高く、そしてひどく美しかった。私の頭の中で、ただ深い愛だけを歌っていた。

 強い彼女はただ震える私を固く固く抱きしめて、ひとことだけぽつりと、呟いてくれた。

「すまなかった」

 辛い思いをさせて、と。



 私は泣き疲れて眠り、翌朝、起きたらすでにルナさんはいなかった。

 部屋を出て、ルナさんを探しに階段を下りていくと、キッチンのテーブルに、私への朝ご飯とメモが二枚、置かれていた。メモのうち一枚には、先に学校へ行くこと、私を学校に連れて行くようにと礼さんに電話しておいたこと。それから、今日の行動のスケジュールが書かれていた。

 それを二度ほど読み返してから、私はそれをもとのように戻す。それから今度はもう一枚のメモを手に取った。それを私は見たことがあった――

 と、そのとき。

 ルナさんの家の、電話が鳴った。

「あ……」

 廊下でそれは延々と鳴っていた。他人の家の電話に勝手に出てもいいものかどうか迷ったけれど、私は結局、出ることにした。

「もしもし」

「亜由美か? 俺だ」

 返ってきたその声は、よく聞き慣れたものだった。

 だから私はゆっくりと頷いた。

「……うん」

 十年以上昔からずっと、私が、『彼女』が、聞いてきたもの。

 彼は躊躇うように時間を置いてから、ゆっくりと、呟くように。

「……ルナがさっき、電話してきてな」

「うん」

「決着をつけようって……言っていた」

 けれどそれは。

 きっと『彼女』が望まなかった結末。

 それでも私は頷いた。

「……うん」

 私は『彼女』ではなかったから。

 礼さんは、それから少しの間を置いて、

「……俺も、知りたい。だから……

 教えてくれ」

「でも」

 私は少しだけ、口ごもった。

 それはきっと、『彼女』が、彼に教えたくなかった真実。

 けれど彼の決意は固かった。知りたいという思いのほうが、強かった。

 だから。

 彼は言った。

「どれだけ傷ついても、構わないから」





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