西日本豪雨災害 after days
7月6日の豪雨災害にあって
私は7月6日を含み7月12日まで
西条にある自宅に帰ることが出来ませんでした。
所謂帰宅難民です。
幸いにも親戚宅に泊まることが出来たので
避難所で過ごしたりということはなかったのですが
いざ自宅に帰りたくても帰れないという状況ってやつは
結構ストレスでした。
普段は帰れない時があったとしても、
「帰ろうと思えば帰れる」
という前提があります。
当たり前かもしれませんが
災害というものは
その前提条件がすべてなくなる
ということがあると思います。
いつ帰れるか分からないという状況は
以外に思うほどストレスを感じます。
7月7日に被災場所から
脱出して7月7日は避難先でゆっくり休みました
ゆっくり休んだというか、疲れ切っていたので泥のように
眠りました。
7月8日には海田方面には道が抜けられるという話を聞いたため、
中野東駅に乗り捨てていた車を取りに行きました。
中野東駅から一旦裏道を通って、瀬野駅側に向かいみどり坂を上がり
瀬野駅を通り過ぎて、バイパスを使い海田方面に戻りました。
東広島方面はまだ通行できる様子はありませんでした。
その後はそんなに取り立ててかわったことはありませんが、
一応覚えている範囲で書いていきたいと思います。
月曜日から仕事の予定でしたので
普段は社食を頼んでいるのですが
流通が難しくなっているという電話が会社からありましたので
弁当の材料を買いにスーパーに行くと
生鮮食品が少なくなっているのと
カップ麺、冷凍食品もかなり品薄になっていました。
中々みられない光景でした。
後印象的だったのは7月8日13時44分に
電車がゆっくり近所の線路を通っていたことです。
試験運転でしょうが、少し電車が通る風景に
ほっとしたことを覚えています。
夜近くの店が開いていたので外食をしましたが、
葉物が届いていないということで売り切れの商品がありました。
職場は特に被害を受けておらず
翌日からは仕事に復帰しました。
上司からは休んでもいいよと言われましたが
逆に何も見通しが立っていないので休んでも特にできることが
ありませんでした。
同じ会社の方も被災地域の方でしたが、同じように出勤していました。
仕事の方は取り立てて変わったこともなく。
ただ流通がとまっているため多少困るかなといった程度でした。
被災地域から脱出した私には、何もない日常が少し
違和感がありつつといった感じで数日を過ごしました。
家族とは携帯で連絡を取っていたのですが
西条方面は本当に物流がストップしているので物が届かない
生鮮食品が全くないと言っていましたので
気がかりでした。
広島方面は市内に行けばそんなに物がないということもない状態でしたので
もちろん一部商品は品切れになっていたり、水は限定商品になっていたりはしていましたが、
という感じでまんじりと過ごしながら7月12日まで過ごしました。
7月12日には東広島市への道が通れるようになったと聞いたので渋滞に巻き込まれることを
覚悟して翌金曜日を上司に話をして有休を取り帰ることにしました。
夜8時過ぎに家を出てバイパスを通り
路肩に土砂が積まれているのを横目に
東広島市へ向かいました。
片側一車線のところがあったりはしましたが予想よりは
スムーズに通れました。
東広島市の89.7MHzでのローカルなラジオが流れた時には
帰ってきたんだ
と思った覚えがあります。
流れていた内容は社会福祉協議会が災害ボランティアを募集していますという内容でしたが、
東広島市へ通る道は結構土砂が流れた後がありました。
とはいえ自宅へはなんとか帰れましたので
よかったと思います。
自宅に戻った後からまた何日かしてから気づきましたが
職場に車で向かう際曇りの日があったのですが、
気持ちが落ち着かなくなり、土砂のあった日を脳裏に
割と克明に思い出すということがありました。
軽度のトラウマを発症してしまいました。
あれから私は雨の日が少し苦手です。
テレビドラマで見るような劇的なものではありませんが、
私のような成人の男性でも
そういった症状がでるようです。
小さな子供やお年寄りでは尚負担が大きいのではと思います。
こういった災害は後からそういった後遺症がでる可能性があります。
「災害は終わらない」
というのが私の印象です。