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オルヴォとソイレ

 下宿については結論から述べてしまえば、『白蜈蚣竜狩猟社』の伝手がなくとも問題はなかったようだ。しかしながら「安心して荷物を置いておける程度の安全性。それと寝床。共同であろうとも水場と便所があること」という最低限の要求でも一ヶ月五〇マルッカ()ほどかかる。他の街でも相場通りの値段で、期待していたほどに安いわけでもない。もちろんさらに安い下宿も見たが、だだっ広い共同部屋がひとつだけで、その壁に這わせたロープを寝場所とするという凄まじいものだった。寝るためには、まずロープと壁の間に入り、首が絞まらないように上に腕をまわした格好で胸でロープにもたれかかるのである。床にも壁にも身体が接していないため厚手の布や毛皮がなくとも体温が奪われない。床に寝るよりも健康を損ねにくいという配慮がなされたまことに人道的な寝場所である。経済性も高く、ひと壁で十人、詰め込めば十五人程度は眠ることができる。


 幸いにして我々が選んだ『平和荘』なる何も考えていない名前の下宿は、そこまで悲惨ではない。家賃が要望通りであった上に、管理人は世話好きとの噂で、いつでも三〇ペンニ(※※)で食事を出してやるとのことだった。建物自体が壁の中でなく、その正面の通りにあることも気に入った。少なくとも一日のうち数時間は日光が当たる。


 さて、こうなると下宿を維持するためにも働かなくてはならない。私だけならば適当な市場勤務もできようが、この兄妹についてはその点に不安がある。労働の経験は無論あるまいし、世間慣れもしていまい。今も「よく骨を折ってくれた」と私に深く感謝しており微塵も疑う気配はない。まったく想像を超えた純粋さである。


 この兄妹、それも妹の方は、ヤリャフ教についてはまるで信じていない自分でも「神々しい」という表現をついしてしまうような外見をしていた。宗教観については後に一章を設ける必要もあろうが、要するに彼女は清廉で無垢な気配に満ちていた。肌は神人のように白く、髪は夜のように黒い。化粧を嫌っているのか唇は乾いていたが、それでも薄桃色が白と黒の中で鮮やかに光っていた。さらに、その後の交流でわかったことではあるが、性格までも神々しいと言えた。つまり外見に反して燃えるような情熱がその精神に明確に宿っていた。目標に向かって突き進む苛烈な魂の持ち主なのだ。だが、私が神々しいと感じるのは、そのような精神を持ちながら、目標を見失っているどころか、これまで二〇年に届こうかという彼女の人生のうちで明確な目標を持ったことなど一度とてないであろうことだった。常に何かをなそうとしながらその何かを意識したことすらない。しかも、彼女自身は目標の不在に気づいてもいなかったのである。それは私の見るところ、宗教的熱狂と同じものである。制御されぬ炎は風に乗って燃え広がるが、同様に制御されぬ情熱は気まぐれに善きことをなそうとする。善きこと、すなわち真・善・美。だが分類学の訓練なき者が判断するそれは感覚的なものとなる。気に入ったものを肯定し、保護し、さらにはそれにかしずく。だが、気に入らなくなったらそれは悪しきものと化すのだ。


 最後までこの兄妹が音楽院から出ざるを得なくなった理由については聞かずにきたが、妹の性格を見るだけで十分といえた。そして兄の性格からもそれは納得できたのである。兄は妹を神聖視しており、彼女の守護者として振る舞いながら、実質は彼女に完全に支配されていたからである。


 とはいえ、私はこの兄妹を嫌ってはいなかったし、なんのことなら兄の気分がわかってさえもいた。彼女は自身の精神に忠実であるという意味で裏切りの心を持たず、それ故に誰よりも偉大であるとさえいえたからだ。何より彼女の歌はたとえ理由がなくとも保護されなければならないものだった。そして、芸術とはそのようなものだ。


 この兄妹、オルヴォとソイレのランタッタ夫妻(※※※)が芸術的熱狂に翻弄された人生を送ったのは性格的に必然だったのだが、厄介なことには、その熱狂が周囲に伝播してしまったことだ。私がその代表格であろう。私の明確な罪はその熱狂に踊り、それがいかなる不思議な運命か、より巨大な狂気を揺り動かしてしまったことなのだが、もう一度だけ同じ言葉を繰り返させていただくならば、芸術とはそういうものなのである。

※ 一マルッカは約千円。


※※ 一マルッカ=百ペンニ。


※※※ 兄妹であり夫婦であるというのはこの世界で珍しいことではない。後に語られる神人と人間の関係によって明らかにされるが、血が濃ければ濃いほど優秀で高貴な人間であるという伝統が強く根付いているのである。もちろんそれに反する思想も存在するが、やはり後に語られるところである。

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