飽満のヴァンギ
前項の会話をした私は高揚していたが、一夜明けて反芻してみると、ヤッキマの心配も最もだった。王は彼の質問どころか、私の質問にも回答はしていないのだ。そして、明確に王は狂っている! 私の思考もそれに似ていた身でそう言うのも難だが、まずは正常な判断力は失われていると考えて差し支えあるまい。私はヤッキマにどう回答したものかわからず再び生活をリャンのヘボネンに移すことに決めた。幸い、明日か明後日にはオアシスの村に到着する予定だった。ヤッキマと顔を合わせる機会は先延ばしに出来るだろう。
戻ってきた私にリャンは「何をフラフラしているんだ?」と言ったが、当の本人が物理的にフラフラしていた。「そっちの身体が揺れているぞ」と指摘すると、「違うね。世界が揺れているんだ」ときた。ヴァジンが「竜涎香が抜けていないのだ」と説明してくれたおかげで事情が理解できた。
「高価なものじゃなかったのか?」
「ワイノが販売用に削って利益分を保管している。その削りカスは各隊に平等に配布された。個人の割り当て分はこの通りだ」
ヴァジンがたばこ入れを開いて私に見せた。なんとスプーン一杯分程度は茶褐色の粉がある。竜狩りたちの不満を抜くにしても大盤振る舞いである。親衛隊士には配布は禁じられたそうだが、竜狩りよりお裾分けをいただいた者もいるらしい。
しかし、ヴァジンが自分はやっていないという風だったので理由を聞いてみる。
「竜涎香のような薬を我々の部族ではヴァンギという。我らのヴァンギは精霊との交信だ。別のヴァンギを使うと以前に使ったヴァンギの精霊が怒り、病気になる」
神妙な調子で言うので、私はそれが彼の信仰であると了解した。それでも好奇心により彼の信仰についての子細を聞き出したくなる。
「それを使ったのはずいぶん前なんだろ? それでもかい?」
「精霊との絆になるヴァンギは限られている。我らのヴァンギは草だが、生えている状態を見ればヴァンギであるかないかがわかる。ヴァンギであれば同じヴァンギしか生涯使わない。ヴァンギでないが酔えるものは使う。たばこや酒はヴァンギではない」
「じゃあ、竜涎香はヴァンギなんだ」
「そうだ。君はヴァンギを使っていないから大丈夫だろう」
ヴァジンはそう言って自分の割り当ての竜涎香を譲ると言ってきた。どうやら私は音楽家の分類になっていたので割り当てがないとのことだ。せっかくなのでありがたくもらうことにする。私も学習の過程で近郊の酩酊植物についてはいくつか試しているのだが、それでもヴァジンには見えていないとのことだから、まぁ大丈夫なのだろう。精霊については信じているともいないという曖昧な立場だとそういう感想になる。
適切な量をリャンに聞いて、その分の竜涎香を携帯用パイプに入れてあぶり、吸う。
ここで種別の明言は避けるが、竜涎香は別の名を秘す麻薬に似たところがあるようだ。意外にも酩酊度合いの調整が難しく、気候や使用時の精神状態、外部からの刺激にかなり左右されるのだ。その名を秘す麻薬物質を「嫉妬深い」と評した作家もいるが――期せずしてというか、麻薬全般の性質であるのか、ヴァジンの言うヴァンギとも重なる――満腹であったり、喉が渇いていたり、なんらかの味覚が舌に残っていたり、口中を清潔にしていなかったりなどで、酩酊は起こらないことさえある。私が麻薬を擬人化するならば、敏感すぎて人見知りという性格になるだろう。独りだけの環境が大好きで、物音や何かの気配ですぐに逃げ去ってしまうというところ。
それが化学物質の作用なのか、それとも精霊の仕業なのかはともかく、竜涎香の場合も、他の刺激を嫌うようだ。しかし、使用感には他の麻薬と格段の違いがあった。
多くの麻薬では、完全にして短時間の睡眠が訪れる。深く、そして夢を見ない永遠とも思える睡眠が続くが、醒めてみるとまだ数十分しか経過していないのだ。その面では竜涎香も同じなのだが、異なるのはこの睡眠中に夢を見ることだ。何かが言葉にならぬ感覚や意図のみを脳に直接伝えてくるような感覚。もちろん幻聴のようなそれは他の麻薬でも生じる。だが、それは醒めてしまえば虚偽だとわかる性質のものだ。伝えられるメッセージも実際には自分の知識の中に収まることばかりで、麻薬が脳内のイメージを再構築、再生していたに過ぎない。しかし、竜涎香は、明らかに自分の知識外のメッセージを伝えてきている。その証拠に私はまだ見ていない浮遊する哲学の球体の裏側を描くことが可能だったのだ。
竜涎香のもたらす夢の中で私は浮遊し、間近に浮遊する哲学の球体を見ることが叶った。興奮してメモを取り出しスケッチするうち(実際にスケッチをしていた。メモが入ったいつものジャケットを着ていたためだ。)、中を覗いてみたくなったのだ。そして、私はそこに首を突っ込んだ。果たして私の身体はするりと植物の壁を通り抜けた! 暗黒のはずの内側はどういうわけかはっきりと見えた。そして私は内側もスケッチしたのである。
醒めてからそのことを思い出し、私は苦笑いを浮かべざるを得なかった。酩酊してスケッチを描くとはなんたる醜態だろう! しかし、どれほどひどいイラストが見られるかと期待していたスケッチは、酩酊者に特有の弱々しい線や不明瞭な輪郭とは無縁だった。
これはどういうわけだろう? このときの驚きは酩酊状態で行ったスケッチの完成度についての驚きだけだった。だが、本当に驚いたのは、その後、竜がかじっていた浮遊する哲学の球体を間近に見る機会があってからだ。私のスケッチは細部に至るまでそのままだった。私が竜涎香の背景に本物のヴァンギの存在を確信したのはその時だ。
そして、おぼろげに抱いていた違和感が形になったのも、それに気づいたときだ。ナイビット・カイラス王の言動はこれに影響を受けているのではないか? もし竜の身体と融合し、竜の血を継続的に飲んでいるのだとしたら……。
王は狂っている。
しかし、王は正しい。
その矛盾が我々を苦しめることになるのではないだろうか?




