浮遊する哲学の球体
赤竜解体の後、我々はさらに東へと向かう。マリシンカなるオアシスの町が目的地だ。隊列を整えて宴会をしながらの二日ばかりでどうとでもなる道のりであり、そこで赤竜の各部を売却できるとあって竜狩りたちの気は抜けている。さらに竜の出没地を通らぬとあって、竜狩りたちは睡眠、酒、博打に精を出すことになった。仕事に忙しいのは私くらいであろうか? この本と分類学のためのメモを必死にまとめていたのだ。そもそもこの頃に理解しはじめたことだが、私には荒くれ者たちとの生活が向いていなかった。竜狩りに対する敬意はあれど、酒、女、博打の話ばかりというのには閉口していた。自然、長期移動の間は楽団の者たちのハーレで過ごすことになっていたのだが、それが悪い方向に転がることもある。厄介な人物の意外な願いを聞かざるを得なくなってしまったのた。
私は平原を浮遊している『浮遊する哲学の球体』を観察していた。双眼鏡を使い、メモを取っていく。下手だろうと特徴をとらえたイラストを描いておかなければならない。この植物はかなり特殊なもので、まずはそちらの話をすることにしておく。
『浮遊する哲学の球体』は植物である。他に似たものが無いという意味で特別なもので、分類上でも胞子植物のうち浮遊植物と呼ばれる種族を一種類で構成している。風に乗る種子や花粉を飛ばす植物は多いが、浮遊植物はその構成物がすべて空中に飛ぶ時期があるという点において珍しい。胞子として空中より地上に落ちたこの植物は、雨期を利用して発芽し、成長するにつれ中が空洞の球体を形成するようになる。この球体は大きくなるにつれ、内側に熱をため込んでいく。この植物は黒みが強い葉を球体の表面としている。複数枚の葉が隙間無く合わさった表面はテラテラと輝き、まるで磨いた黒曜石の球のようだ。この色のせいで太陽光により球体の中身の温度は周囲よりも高められる。熱気球の原理で空中へと浮き上がるのだ。
なおこの植物には毒がある。その毒は揮発性のものであることがわかっているので、おそらくは熱だけでなく中にも毒に起因するガスをため込んでいると想像される。想像される、というのは、この植物の成長後を採取することが困難だからだ。なにしろ気球で上がっていって採取するしかないのだが、この植物の生息地域には竜が出現することが多いからである! 竜の生態について書いた際、竜がこの植物を摂取すると書いた。これは竜がガスを吸っているのだと推測できる。
無論これも推測となるのだが、竜涎香の主成分とはこの『浮遊する哲学の球体』のガスではなかろうか? 毒物が麻薬となるのはよく知られているところであるし、生物の体内で化学物質が変質することも良く知られているところである。この後、私も竜涎香については体験することになるのだが、その推測は体感としても正しかったと信じる。そしてそれは、より重要な意味合いを後に持ってくるのだが、今はまだそれについて語るときではない。『浮遊する哲学の球体』をスケッチ中に話しかけて来た人物について語るときだ。だが、ここでなぜこの植物がそのような名であるかについて書いておかねば、その機会を逸する。黒光りする球体が浮遊している様を見て、これが天体であるかが神学上の議論になったことがあるのだ。しかし、市井の者どころか野山にいる者である遊牧民たちはすでにその正体が植物であると知っており、それに悩む神学者たちを揶揄してつけた名なのである。さて……これでいいだろう。
私の学問を邪魔した厄介な人物とは、他ならぬヤッキマ・パーランであった。私が再三皮肉を込めて四角四面ながら理想の親衛隊士と呼んできた彼だが、このとき、なんとその表情には戸惑いと落胆が浮かんでいたではないか。
「そういえば旅に出てからは貴様と話したことはなかったな」
そんなことを言いながら私の隣に来てそのまま動かないでいる。
これは話しかけてくれということなのだろうが、私もそれほどつきあいの良い人間ではないし、そもそもが学問の邪魔をされている。こちらから口を開くものか、と意地になってしまった。こうなると互いにどちらが沈黙に耐えられなくなるかの闘いである。
「貴様から口を開くのが礼儀というものであろう」
かなりの時間が経過した後、さすがに耐えきれなくなったヤッキマが押しつけがましく言った。子供じみた意地ではあったが、ささやかな勝利を得た私は、ぶっきらぼうになら口を開いても良いと考えを変える。それでも彼の物言いは気に入らない。
「何を言っているのか意味がわからない。それで友好的な対話がしたいと?」
私がそう答えるとヤッキマも意地になって言い返してくる。
「身分の問題だというのだ。そも私は王に仕える身であってだな」
「王に仕えるのは我々が皆そうだ。神人に近い血筋でない者同士ならば、その間に上下があってはむしろ王への不敬になるぞ」
そう言うと、ヤッキマは不機嫌な顔で黙り込んだ。そうなると、今度は私の方から話しかけないといけないような気もしてくる。精神的に優位に立った余裕もあり、私は渋々といった体に見えるように気を遣いつつ口を開く。
「……何か話したいことがあるんじゃないのか?」
するとヤッキマは不機嫌そうに口をとがらせた。といっても表情がいつもより少し動いただけではあったのだが。
「貴様は知恵が回りすぎる。不愉快な」
「馬鹿にしにきたのか?」
「……そうではない。貴様でなければどうにもなりそうもないのだ」
雲行きが変わった。
「結局、何の話なんだ?」
「王の話を理解するのに我らの知識が足りんのだ」
簡潔にそう言い切って、ヤッキマはまた私の言葉を待つように黙り込んだ。
なるほど、そういうことならヤッキマの気持ちもわかる。自身の力不足で私を頼ることになってしまっては立つ瀬もなかろう。とはいえ、ヤッキマも馬鹿ではないことは私も知っているし、側近たちが揃っていて今更のように話が通じないということもあるまい。
「しかし、親衛隊士が側近であったのは以前からだろうに……」
私はそのあたりをずばり聞いてみたわけだが、どうやら竜に関することでのみこれまでとは違う会話をするようになったのだとか。
「……ともかく難解なのだ。私とて王の興味範囲については読書もしてきたが、手に負えない。今回のことは城の老学者たちでもどうだか……」
ヤッキマは苦渋の表情で私を見た。まるで私が悪いと責める意味合いも視線には含まれていた。逆恨みもいいところである。
「私でなんとかなるはずもないとは思うけどねぇ……」
私が逃げ腰になるのも当然なのだが、ヤッキマは唐突に荒い声をあげてきた。怒鳴るとは何事か、と怯えつつの反感を抱いたのだが、なんとヤッキマは私に頭を下げているではないか。
「すまぬ。この通り頭を下げる。王の真意を探ってはくれまいか!」
私はその言葉の意味を理解して気づいた。態度とは裏腹に私に頼るまでヤッキマは追い詰められていたということだ。そうなればごねるのも悪い気がしてくる。
「そういうことなら話はしてみる……いや、王とお話できる機会を逃す臣民はいまい、とは思う……。が、何を確認したいのかは聞いておきたいんだけども」
ヤッキマは私に感謝を示すことはなかったが、少し態度を軟化させた。
「うむ。本来ならば命じるところを頼んだのだ。王との対面を命じるというのもあり得ぬからではあるが。ともあれ、頼み事からにはこちらの理由を明かさぬわけにはいくまい。仲間の死は我ら恐怖を知らぬ精強たる親衛隊士ではあるが、わずかの疑念を抱かずにはいられなかったのだ」
回りくどい言い方ではあるが、無理もあるまい。ヤッキマにはややもすると余裕があるかもしれないが、他の親衛隊士が怯えても当然だ。
「当然、竜狩りたちも同情していたよ。仲間だからね」
「そこには疑いを持っておらん。ありがたく思っている。だから私には職務だからというだけでなく、部下を励ます必要がある。そのために、貴様を信頼して小声で告げねばならぬのだ。無論、口外無用であるぞ」
「わかった」
「このたびの竜討伐行、その大義には疑いはない。疑いはないのだ……が」
「その大義が理解できない……かもしれない。王の言葉が高尚すぎて。そこで高尚な学問がわかる下々の私が翻訳をすべきというわけだ」
私が先回りして言うと、ヤッキマの顔がはじめて明るくなった。
「そ……その通りだ。実に……その……腹が立つ」
だが、ヤッキマは途中で言葉を濁した。
「飲み込みがいいからな、私は」
「知恵ある者はかえって信頼できないものだ。覚えておくがいい」
そんなわけで、私は依頼を受けたのに説教をされることになってしまったのだが、依頼自体は危険な魅力に満ちたものであることは誰の目にも明らかだったろう。私はこの時にはすでに王との対話に臨む心構えになっていた。




