血の盃
旅の行程も序盤は移動のみだ。荒野は数百ヴェールスタ行っても尽きない。数時間も走れば周囲すべてが地平線となり我々の車列だけがこの地球上の唯一の存在のように思えてくる。日が暮れるまで走り、キャンプを張り、夕食から馬鹿騒ぎ。疲れたら眠り、朝食後はまた走る。予定通りの進行でも数日は走り続けないといけない計算だ。訓練と実益を兼ねてプトキ・ルルに比べれば小型の竜を狩るための狩り場まで行くという計画なのである。
あのような出発時の混乱にもかかわらず我々の士気は高かった。毎夜の宴にはオルヴォの音楽とソイレの歌が供されたのみならず、何日目かの夜に檄が飛ばされたことが大きい。
百人以上が野営するキャンプ地は小さな村祭りの様相を呈する。すぐに撤収できるように天幕の下にテーブルと椅子を並べただけではあるが、それでも食堂と呼ぶことは可能な代物が立ち上がり、そこに調理された食事が並ぶ。どれでも一人一皿、あるいは一杯までは支給されるし、余った分は早い者勝ちなので全員ががっつく。酒も入るので毎度のように喧嘩も起こる。当然止める者はほとんどいない。その時もどこかの馬鹿二人が足を踏んだ踏まないで殴り合いの喧嘩に発展しそうな空気を出しはじめていた。野次が馬鹿に加速をつけて、怒鳴り合いの末に今にもやるか、というとき、がしゃり、とあの音が響いて、さすがに喧嘩の当時者はおろか全員が動きを止めた。
「喧嘩は仲良くやるべきだとも。けしかけるのは良いがどちらも勝ちにならぬようにしなければな」
すでに全員が黙り込んでいる中、ナイビット・カイラス王の言葉だけが聞こえてきた。当然ながら王と侍女たちの食事は一般の竜狩りたちとは別であり、これまでも車内でとるのが通例だった。今日に限って王が気まぐれを起こしたということなのだろう。
「喧嘩をやめたなら、それはそれでよい。遺恨のないようにな。食事に戻りたまえ。少し皆に話をしよう」
天幕の支柱からぶら下がっているランプの明かりで竜鱗の半身がてらてらと輝き、それと対照的に影の差した白い肌の顔が微笑んでいる様は、彼が王でなくとも喧嘩を止めるだけの威容に満ちていた。かしこまる竜狩りたちに王は「そのままでよい」と手を振る。
「喧嘩はいつでもできる。しかし、戦いは人生に何度もできるものではない。長命な私が保証しよう。そして、これから行うことが本当の戦いなのだと保証しよう」
王は全員を座らせ、ただ一人立ち上がって言った。
「皆の者に問おう。お前らは勇者か?」
そこで王が言葉を止めたので、答えを待っているのだと竜狩りたちも気づいた。控えめに、三々五々「おお」と声があがる。そのパラパラとあった返答では当然、王は満足することはなかった。
「問うぞ! お前らは勇者か?」
「おお!」
今度は声が揃った。だが、それでも王は満足しなかった。
「問う! お前らは勇者か?」
今度は全員が叫んだ。それでも王は同じ質問を繰り返した。それは全員が声を限りに叫ぶまで続いた。
「……気概、立派である。そう我らは戦いに行くのだ。真の戦いだ。私の半身を奪った邪竜との戦いだ」
王が満足げに皆を見回した。竜狩りたちの間に熱病が一瞬にして蔓延したかのようだった。誰もが顔を紅潮させ、荒い息を吐いていた。
「だがこれは私闘ではない。復讐ではあり得ない。もし皆が牢獄に閉じ込められ、その手に工具があったならば如何にする? そうだ、牢獄を打ち破るであろう。かの邪竜こそその牢獄なのだ。人間全体を縛る牢獄なのだ!」
王は大きく手を振り上げた。竜狩りたちの熱気を掌握し操っているかのようだった。皆が「おお!」と声をあげていた。
「何故、邪竜が牢獄なのか? それは私にはわかる。我が半身は邪竜だが、私はこれを完全に掌握している! この通り邪竜の一部は我が配下にあるぞ! その私が答えを言おうではないか! 邪竜はこの世界の矛盾なり! 皆が苦しみの根源なり! 病、天変地異、餓え、それらの根本こそ世界の矛盾。これを留め置いたのが邪竜! 故に我らは世界の矛盾と戦うのだ! 世界と戦い、これを組み伏せ、解放するのだ!」
王がひとしきり話し終えると、百人もの歓声が夜空に立ち上っていった。その渦が収まらぬうち、王は手をあげてワイノを呼んだ。
「来たれ、竜狩りの指導者よ。我が前に。そして、古式に則り杯を交わさん!」
ワイノは立ち上がり、戸惑い気味に王の前に出てきた。王は侍女を呼ぶ。侍女の持っていた盆にはゴブレットがふたつのっていた。以前から準備されていたのだろう。王はゴブレットを取り、ワイノに手渡した。自らもゴブレットを掲げる。
「さぁ、共に竜の血を飲み干そう! 私はプトキ・ルルを滅ぼすと誓う! 竜狩りはプトキ・ルルを滅ぼすと誓うか?」
ワイノはゴブレットの中身を見て、一瞬逡巡したが、即座に顔をあげて叫んだ。
「竜狩りはプトキ・ルルを滅ぼすと誓う! 皆も歓声をもって応えよ!」
今晩最大の叫びがキャンプを覆った。
王はワイノとゴブレットを持った右腕を交差させ、そのまま飲み干すことを強いた。ワイノも応じて一息にゴブレットを飲み干す。そして掲げられた双方のゴブレットに拍手と歓声が。王の口の端からは一筋の血が流れ出していた。やはり中身は竜の血なのだ。
そして王は楽隊に指示して音楽を奏でさせた。
「命知らずたちよ! 大いに呑み、大いに歌え!」
そう命じると、王は自らのトレーラーに引き上げていった。
竜狩りたちは命令通り、大いに酒を身体に注ぎ込みはじめた。
私はワイノに近づき、ゴブレットの中身が何だったのかを聞いた。
「ワインだった」
小声でワイノは教えてくれた。さらに、王のそれは竜の血だったと請け合った。
王が正気であればこその気遣いだが、私にはかえって正気であった方が恐ろしいのではないかと思えてきていた




