祈り
いよいよ出発の日が近づいてきて、私とリャンはどうにも落ち着かなくなってきたとお互いに言い合うようになっていた。二人とも今回の旅が尋常で無いことを感じ取っていたのだ。特に私はイロナから得た知識により王の真意についても疑念を持っていた。そんな風に不安にしていたのが皆にも伝わったのだろう、あるときオルヴォが「そんなに落ち着かないのならヤリャフの教会にでも行ってみては?」と提案してきたのだ。なるほど考えてもいなかった。ヤリャフ教は無神論者でも教会への来訪は拒否はしていなかったから、心を静める役には立つかもしれない。なんのことなら入信しても良いという気持ちにまで私はなっていた。それほどまでに迷っていたわけである。
さて街の教会はいかにも静謐で荘厳に作られていた。私などはそれだけで白けてしまうが、一緒に行ったリャンは感じ入るところがあったようで「厳かな気持ちになる」などとつぶやいていた。幾何学的なステンドグラスも床のタイルも軽いめまいを起こしこそすれ、そのような気持ちになるには何かが足りないと私には感じられていた。
とはいえ文句を言いに来たわけではない。むしろ聞きに来たのだ。教会のホールには机が並んでいて、その正面には説教壇がある。そこに神父が立ってありがたい話をするまでもう少しである。我々が早く着きすぎていたこともあるが、しばらくすると三々五々信者たちがやってきて静かに机に座るのだった。
やってきた神父は経典を読み上げ、道徳的な話をした。そして神はいつも見守っておられるうんぬんと付け加える。
もし神がいつも見守っているなら、そこに無限のエネルギーが生まれるはずだ。竜の循環エネルギーもそのせいと考えることもできる。とはいえ世界に神はいないと考える方がシンプルである。あるいは竜の脂そのものが神だということだ。我々には直に見えない情報処理――見守っているということだ――を行っており、それにより我々の生活を豊かにしてくれる。
そんなことをぼんやり考えていたら説法が終わったらしい。信者たちは帰りはじめ、神父が新顔である私たちに向かって笑顔で歩み寄ってきたのだ。
「教会ははじめてですか?」
「そうですね。落ち着かなくて」
リャンが答えた。
「竜狩りの方々とお見受けしますが。出立を前に不安になるでしょう。成功をお祈りしています」
神父は頬骨が突き出た神経質そうな人物で、その見かけとは裏腹に目は落ち着いた光を放っていた。ヤリャフ教のゆったりとしたローブを着て経典を小脇に抱えている。
「ヤリャフ教では竜についてどう教えています? いえ、いきなりで申し訳ない」
私は唐突であるとは思いつつも聞いてしまう。が、神父はその対応には馴れている様子だった。
「ご安心を。竜は悪の具現化と教えられています。竜狩りも神のご意志に添うものと」
「では竜を動力機関として利用するのは?」
「悪の利用という意味では人間の堕落でありましょう」
これも用意されていた答えなのだろう、さらりと答えられる。
すると、対抗心というわけでもないが、私の中に引っかかっていたものをぶつけてみようという気になってきた。大人げないとも思うが、真剣に悩んでいたことでもある。
「では神人をどう教えていますか?」
「神人は神の似姿ですな」
「では、王の半身を竜で作ったことをどう考えます?」
神父は一瞬だけ困った顔になったが、すぐに表情を戻した。
「それも悪の利用ではありますが、そうなると王の堕落ということになってしまう。あなたも意地悪をおっしゃる」
「非難するわけではないんです。私も悩んでいるところがあって」
私がそう答えると神父は微笑んだ。
「わかります。これは不敬であるとはまた違う問題とは思いますが、経典はいずれ訪れる最終戦争のことを書いています。そこにおいて神の意に添わなかった者は滅び、やがて神による時代がやってくると。それは神の被造物たる神人とて例外ではないということになります。もちろん人間と違ってほぼ救われるのだと断定できますが」
なるほど、その様な信仰が存在するとは聞いていたがヤリャフのものだったのか、と納得できた。すべての起源を単一の存在に置いているならば自然とそのような考えになるだろう。与えたならば奪うこともできる。
「それならば、神以外の何者にも誰が滅びるのかは予見できないということですね」
「その通りです。我々は戒律を守りつつそのように願うことしかできません」
「では、竜が生き残る最終戦争はあり得るのですね」
私が言うと、神父は首を横に振ったが、否定しきれぬ、と曖昧な笑みを浮かべた。
「経典も竜を邪悪と伝えていますので、私としてはあり得ないと答える他ないですね。むしろあり得るのは、被造物の中から善性が消えていくことでしょう。地上に悪があふれ、ほとんどの者が最終戦争で死に絶えるような世が到来することかと」
「神人からも善性が欠落することがあり得る……というと意地悪すぎますね」
私はあくまで冗談と伝わるように笑いながら言った。神父もつられて笑う。
「それは意地悪すぎますね。しかし、そのようになったとき、教会は常に神に祈る側につくでしょう」
「多くの人間が祈る側についたなら、それは教会的にも祝福すべきことだと?」
「然り、ですな」
人間主義者たちを念頭に置いての言葉だったが、その真意が伝わった上で神父は肯定したようだった。後から振り返ってのことになってしまうが、このときすでに教会の心も王からは離れていたというわけだ。純粋な人間主義者たちは神人を否定するように教会、並びに神秘主義を否定するが、人間主義者が必要とする彼らの支持者たちは教会に属している。その意味で人間主義者と教会は取引の真っ最中というところだったのだろう。
「長々とすいませんでした。最後に質問をひとつよろしいですか?」
「どうぞ」
「神人から善性が欠落するなら、神の存在をどのように信じるのです?」
「ですから祈りなのです。祈りを通じ、体験として神を間近に感じることがあります。その瞬間の幸福と、同時に感じる自らの小ささとが神の実感をもたらすのです。体験することによってのみ感じることができます」
神父の言うことは実感を伴っていた。体験のことならばそこで会話は終わってしまう。たとえそれがメタファーの話をしていたのだとしても、それ以上踏み込めはしないことになる。だが、それは実のところメタファーではあり得ず、だからこそ教条的な解釈を捨ててまで世俗的な交わりを肯定することも可能だったのだとは、他ならぬ私の後の体験が物語る。神よ! と唱えておこう。神は存在するが、いかなる形をしているかはその時になってみないとわからない。だが、それを見たならば、もう以前の自分には戻れないのだ。




