学生街
自分の服を取り戻し、馴染みのジャケットに袖を通すと自由を感じることができた。そうはいっても二日程度のことだったが、妙に感慨がある。ここは親衛隊詰所の裏手の路地。おおっぴらに釈放するわけにはいかないのか、それともヤッキマが嫌がらせをしてきたのか知らないが、人目につかない小汚い路地に私は立たされていた。
「なぜこのような仕事をせねばならんのだ」
ヤッキマは何度もぼやいていた。今も扉の内側から私を見張っている顔は不機嫌そのものだ。今はヴァジンの着替え待ちである。その後、二人してヤッキマからざっと今後のことについて説明を受けることになっているのだが、やりにくいことこの上ない。
「で、どうやって報告すればいいんです?」
私は聞いた。よく見てみれば、このヤッキマも外見と性格がともに四角四面なだけで、私と年代もそう離れてはいない。この頃にはそれほど怖がる必要もないかと思えてきていた。もっともその態度もヤッキマには癇に障ったようだ。
「報告などせんでいい! 我々の優秀な尾行で貴様らの所行はすべて監視する!」
半ば怒鳴り声だったが、あくまできっちりとヤッキマは言った。
「そちらには手間ですが、いいんですか?」
余計なことを聞いた。今度は完璧な怒鳴り声が返ってきた。
「こちらがやると言っている!」
と、そこでヤッキマの背後からするりと路上に出てきた者がある。桃色のスーツ上下。オレンジのベストがその下に見える。ストライプのシャツに紺ベースの柄ネクタイ。派手も派手、といった格好であるが、そのどれもが高級品で下品にはなっていない。もっとも白い肌の者には似合うも似合わないもない色使いである。それを見事に着こなしているのは、もちろん黒い肌の持ち主、ヴァジンであった。
私ももちろん驚いたが、ヤッキマもヴァジンの服装のことを知らなかったのか、言葉を失っていた。ヴァジンはそんな私たちを見てにやりと笑うと、美しいダンスステップでの歩行を決めてみせた。長身でしなやかな筋肉の彼が身体をうねらせる様は美しく、私は目が覚めるような気持ちがした。
「見事じゃないか! こりゃあいい!」
私がヴァジンに握手の手を伸ばすと、ヴァジンは「そうじゃない」と手を振ると「私の故郷ではこうするのだ」と、拳と拳をあわせた後、親指をこすり合わせる挨拶を教えてくれた。私たちは声を上げてそれを行い、互いにダンスステップを踏んだ。ヴァジンは見事に。私は見よう見まねでへたくそに。
「いい加減にせんか!」
ヤッキマが怒鳴ったが、予想の範囲内だったので驚くことも怯えることもなく私たちは自分のペースで喜びを表現した。何よりダンスは一通り踊らないと収まりが悪い。足をもつれさせながらも、ふとヴァジンのスーツに注目すると、西方の共和国における高級デザイナー、サコーの手になるもので、単なる高級品というだけではなかった。普通手に入らない一品物である。
「サコーのじゃないか。どうやって手に入れたんだい?」
「もちろん店で買ったとも。本人から」
「本人から? 知り合いなのかい?」
「元々、着飾るのは好きだった。故郷の男の文化でもある。狩りで稼いで着飾り、遊ぶ。服は困ったら売れる。良い文化だ。服が無くなるか汚れたら、また狩りだ。そうやって北へ北へと流れてきた。それを実践していたらサコーの目にとまった。安く服を売ってくれ、こちら流儀の着飾り方を教えてくれた」
「そりゃあすごい! 街でも目立つね! ところで狩りと言っていたけど、まさか竜を狩ったことは?」
「ある。故郷で。それほど大きくはないが」
「そういうことなら、住むあてがある」
私は勝手に請け合った。さてそういうことならそろそろ動き出すか、と思ったのだが、まだ何事かヤッキマは怒鳴っていた。「親衛隊に従え」だの「ロートゥア市民の誇り」などをこちらに叩き込もうとしていたようだったので、こちらとしても返す言葉はひとつしかない。「そちらが勝手に監視すると言ったんじゃないですか。今後ともよろしくお願いしますよ」。
私とヴァジンは歩きはじめた。ヤッキマの吠え声は通りに出ると聞こえなくなり、尾行も怪しいものだと思えてきた。ヴァジンは相当に目立ったが、私も逮捕を経た後では好奇の視線を向けられてもどうとも思わなくなっていた。何事も経験であるとは過去の偉人も言っていた通りである。
住むあてと言った『白蜈蚣竜狩猟社』に着いた。私はヴァジンを待たせておいてノックもなく扉を開けた。予想通りというかなんというか、リャン・ルートがだらしない格好でソファに寝転んでいた。「おい」と声をかけると、リャンはこちらを見て、死体が墓から歩いて出てきたところを見たように驚いていた。さもありなん、とは思ったが失礼な話である。しかし、失礼どころでないのはこの後だった。リャンは驚きに加えて怯えの色を表情に宿らせた。それは犯罪の証拠を見つかった小悪党のそれだった。口元があからさまに「やべぇ」と動いていた。だが、よろよろと立ち上がったリャンは顔を背けると、振り返った次の瞬間には見事なまでの作り笑顔になっていた。リャンは芝居のカーテンコールもかくやと手を広げて私に向かってきた。
「おお、兄弟! 絶対に無実だと信じていたとも! 無事で良かった!」
兄弟ときた。誤魔化しもここまでくると怒る気が無くなる。リャンが私だけを首謀者として親衛隊への生け贄としたことは確実となった。うすうす感づいてはいたから、それを今後の生活保障でチャラにしようとたくらんでここに来たわけだが、なんにせよ荒っぽいことにならずに済ます気になったのは良かったと思っておく。
「いや、酷い目に遭わずには済んだよ。聞いているかも知れないが、王があれを気に入ってくれたらしい」
私が穏やかに言うと、リャンも安心したらしい。今度は心底からの喜びを顔に浮かべた。
「いや、良かった。あの兄妹も逃げていたから、後で報せてやらないと!」
オルヴォとソイレは一度捕まったはずだが、リャンは知らなかったようだ。彼らには後で会いに行くとして、今は別件を片付けないといけない。
「ところでいろいろあって王に晩餐会に呼ばれるかもしれない。しばらく滞在しなくちゃならないんで、金銭的にも世話になりたいんだけど」
私がずばりと切り出すと、リャンは一転して渋い顔に。
「そりゃあ、ちょっと甘えすぎじゃないか、兄弟? 仕事なら世話してやらないでもないんだから、働いてくれよ。下宿ももう紹介してあるのだし……」
「いや、密命があるんだ。詳しくは後で言うが、協力者がいて彼の食い扶持も必要だ」
「何を言ってるんだ、そんなことを勝手に決められても……」
「密命って親衛隊からだぞ。逆らえるはずもない。こっちで勝手にやれと言われても、彼がなんて言うかな」
私にはイタズラ心が芽生えていた。リャンを少しぐらい脅かし、へこましても罰は当たるまい。
「ヴァジン! 入ってくれ!」
声に応じて入ってきた着飾った野獣を見て、リャンは奇っ怪な悲鳴をあげた。
「ぉひょう! な、な、な、なんだ、そりゃ……人間か……」
「彼は失礼な奴には馴れているだろうけど、これからのことを考えると、君がそんな態度のままじゃ困るんだ」
私はヴァジンに笑いかけた。ヴァジンは察したようで、私に笑いかけると、大股な一歩だけで一気にリャンに近づいた。悲鳴を上げて逃げようとするリャンの腕をつかむと、ねじ上げるまではせずとも、ぶら下げるかのようにして自らに引き寄せた。リャンとて二半アルシンはあるはずなのだが、それをヴァジンは子供扱いしている。
さんざんリャンで遊んで、私たちは条件を呑ませた。社員として我々に給料を払い、ヴァジンに宿を紹介すること。ヴァジンの脅し以上に親衛隊からの仕事を匂わせたのは効果があった。政治方面にまるっきり興味の無いリャンであるし、アバイ・カステルに細いながらも繋がりがあることもわかっている。べらべら話されて危険なことになっても困るので、詳細を言うことはなかったが、親衛隊からにらまれないように親衛隊の手先になったフリをしておくのが大事なのだとだけは強調しておいた。
「さて、オルヴォとソイレに会いに行きたいんだけど。下宿かな?」
一通りの話を終えてから私はリャンに聞いた。
「学生街の酒場に呼ばれていってそのまま隠れたんだ」
酒場の名前を聞いた。リャンは政治については完全に無知だから気づいていないだろうが、学生街の酒場となれば人間主義者の巣窟になっている可能性がある。彼らが呼ばれていったということは、主義者たちの偶像として使われるという意味だろう。危ない橋かもしれないが、まぁ行かねばなるまい。リャンに礼を言って出発する。
道中、ヴァジンにざっと状況を説明する。彼も結局は人間主義者については知らないのだが、政治についてを部族のごたごたに喩えることで大枠を理解していた。人間にも出来不出来というものがある、などと妙な感慨にふけっているうち学生街に入った。私も学生には違いなかったので、学生街なるものには少々詳しい。この場所もご多分に漏れず雑然とした路地が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。そこにある店は安食堂に安喫茶店に安床屋に古本屋に古着屋と相場が決まっている。安いか古いかしかないわけだ。初めて来たのに何がどこにあるのか把握できるのが学生街というものなので、私は勝手知ったる土地のように歩を進めた。学生は一般に大半が変わり者を自称する普通の人であって、普段から仮装で暮らすことで変人アピールを怠らない自意識の塊のような奴は珍しくもない。そんなわけでヴァジンが注目されないことは助かった。マナーという言葉から最も遠い落書きとビラだらけの通りを覚えた地図と勘だけで歩いて行くと、目的のバル『火の鳥』は見つかった。
「優雅さはないな。こういう構えの家主は怯えている」
ヴァジンは洒落者なだけに木製の重い扉を見ただけで本質を見抜いていた。引きこもりたい連中の警戒心が扉を重くしている。地下組織というほど厳重ではないくせに扉でどんな奴が入ってきたかチェックする係がいるというお遊びをするのが政治的偏向をした主義者たちの溜まるバルなのだ。
「内装も大体はそんなもんだよ」
私は扉を開けた。まだ夕刻少し前というところだが客はそれなりに入っていた。大学がはけたら直行する奴らが多いのだろう。彼らは一様に警戒と敵意のこもった目をこちらに向けてきた。店内はそれなりに広く、小さなカウンターの他は丸テーブルが十もあるばかりか、小ぶりながらステージがある。曲もできれば演説もできるという具合だろう。ステージは今は無人だった。話せそうな相手はカウンターの裏のバーテンか。そちらに目をやると、バーテンが顎を振り、指示された客が戸惑った顔になった。敵意のある目を向けてきたとはいえ彼らにもヴァジンは目に入っている。文句を言いに行く係を押しつけられたくはないはずだ。彼が立ち上がりかけた格好のままおどおどしているので、私はこちらから歩いて行くことにした。
「オルヴォとソイレがここにいるって聞いたんだけど……」
そう話しかけると、いきなり激しい反応がかえってきた。
「貴様ら親衛隊の犬か!? 彼女らをまた逮捕に来たってのか? 支配者に尻尾を振っている奴らの二枚舌は大したものだな! 一度は見逃したのに! 我々は屈しないぞ! 人間は支配されない! 人間も神人も平等なんだ! 我々は……」
彼は政治主張を叫びはじめ、会話にはなりそうになかった。まさに自分の言葉に酔っ払っている状態で、逃げてしまうかぶん殴るか疲れるのを待つかしか対処方法はない。ヴァジンを振り返ると、淡々としていて怒りこそないが「面倒だから殴ってしまおう」という顔をしていたので、慌ててヴァジンの前を身体で塞いだ。
「友人だよ。私があの車に乗っていた」
その言葉が聞こえなかったのか嘘だと思われていたのか相手の態度は変わらなかったが、比較的冷静だった他の客たちがざわつきはじめた。そのおかげでステージ脇の控え室に続いている扉が開き、何事かと顔を出してきたのが他ならぬオルヴォだった。私はほっとして彼に向かって手を振った。
「シランバさん、良かった!」
オルヴォが懐かしい友達を見つけたように小走りでやってきた。ようやく酔っ払いの政治主張もばつが悪そうな空気だけを残して収束した。周囲の見る目が好奇のそれに変わった。王への誓願事件の仕掛け人と着飾った野獣に注目しない者があるだろうか? だが学生たちは私たちに近づいてはこなかった。オルヴォが嬉しそうに「こちらで仕事をもらえて」と私に報告してから、学生にソイレとこの店の支配人を呼んでくるように言った。それでようやく我々は席に着くことができた。
「一時は危ないかと思いましたが、ナイビット・カイラス王からの許しが出まして」
「王に反対する人たちの店なんでは?」
「過激な人もいますが、多くは王から政治を譲り受けられればいいという意見ですよ」
ロートゥアのそれはまだ穏健とは聞いていたが、言葉半分に受け取っておくことにする。まさか親衛隊からスパイの真似事を頼まれているなどと言うわけにはいかない。
「では今後、王から食事に呼ばれるかもしれないとは聞いて?」
「それも聞いています。名誉なことだと思っています」
屈託無くオルヴォは言った。そこにソイレがやってきた。その後ろに学生らしき男がついている。彼はソイレの後に丁寧に挨拶をしてきた。彼が支配人だった。
「まだ学生なのですか?」
私は驚いて聞き返した。
「はい。借金をしてこちらの権利を買いました。これから大きくしていこうと頑張っているところです」
殊勝なことを言っていたが、その後、雑談してみると、好きになるには険のある男だった。野心があることは悪くないのだが、それを隠そうとしているのはいささか筋が悪かった。しかも破滅願望がある危険な男であると見せたがっているのも鼻についた。それでいて真っ先にすることは自分の保身であるという類の人物だ。政治の話をしたがり、私が応じないとあからさまに不機嫌になった。
「上層の者だけが利益を得るためにやってるんですよ」
しきりにそういう意味のことを言うので、経済学について質問してみるとろくに知らないようだった。彼はますます不機嫌になり、私は親衛隊の活動に荷担するのも悪くないかも知れないと思うようになっていった。自分より偉大な存在に対しての意味も無く感じる単純な反発を理屈で正当化していく作業だけが彼にとっての人間主義なのだった。
「しかし、実際に実行に移すわけではないでしょう? つまり、政権を人間側に取り戻すには地道にやっていくしかないわけで、そのためには一般市民の支持を受けなくちゃならない。それを今までやってこなかった以上、まともに何かする気はこれまでなかったということになるんじゃないですかね?」
私は挑発してみた。そうすれば具体的な反政府活動が聞き出せるかもしれないと考えたのだ。もし何もなければそれでよい、と思っていたが、さにあらず、相手は簡単に口を割った。私に有能なところを見せたいという気持ちが働いたのだろう。
「ちょっと街で歌を歌ったからって我々を馬鹿にして良い道理があるわけないでしょう。我々は行動する。政権を人間側に取り戻す。生ぬるいことはしない。革命ですよ。破壊兵器を作る博士がいるんですよ、我々の大学に。王の命令で客員として来ているんですが」
にやにや笑いを彼は作っていた。
「それを仲間に引き入れるってこと?」
私は不快感を顔に出さぬように気をつけながら聞いた。すると、決定的なことを言うぞ、ともったいつけた上で帰ってきた返事がこれだった。
「拉致するんです。我々はその博士がどこにいるか情報を流す」
「君たちが拉致するわけじゃなく?」
どこか拍子抜けして私は聞いた。すると、また彼は不機嫌な顔になった。
「我々が犯罪をするなんて。そんなことは無学な者にやらせておけばいいんです。我々は議員を通じてヘプタルにパイプがある。シャンダイと往復している工作員が実行し、拉致した博士とは我々が対話し、人間主義に目覚めてもらう」
夢想に近しいことを彼は言っていたが、その顔は実現を信じていた。もうこれ以上話す必要はなかった。「そういうことなら、そうなるんでしょう」とだけ私は言って、あとは努めて雑談になるよう話を進めた。苦痛だったので、途中、オルヴォとソイレに数曲ばかり歌ってもらうようお願いした。彼らは快く応じてくれた。その音楽を気に入ったらしいヴァジンがステージに上がって彼独特のダンスを披露して、店内は盛り上がった。皆がヴァジンのダンスを真似た。ともすると私まで人間主義者たちに連帯感を抱きかねない雰囲気だったが、盛り上がって発する学生たちの奇声の中に政治的主張が混じるので、そのたびに私の頭は冷えていった。
やがて否応なく時代は動いていくのだろうが、彼らのような連中が中央に居座ろうとして誰かを真似たダンスを続けるのだと思うと、いささか切なくなってくるのだった。
※ 西方の共和国についての資料は見つかっていない。
※※ 一アルシン=約七一センチ




