取引
いささかわかりにくい説明だったらしく、囚人たちの中には興味を示さない者も多かったが、心強かったのはやはりヴァジンだった。元々の頭が私よりも優れているらしく、話に感心してくれたばかりか「ラバは重い荷物を耐えるが、縛り方の悪いロープには耐えられない、との言葉も私の故郷には伝わっている。この場合、学問がいかに重くとも、ロープという学習方法があれば上手くいくということだな」と、秀逸な理解まで示していた。私も彼が聞いてさえいれば教え甲斐はある。言語の読み書きを覚えれば、その後の発展は早いだろう……と、思いきや意外なことで獄中の講義は終了する。毛布の臭いとシラミに脅かされてよく眠れなかった翌朝、取り調べという名目で檻から連れ出された私は、ある驚愕の取引を持ちかけられることになったからだ。事態を最初から書いていくことにする。まず、檻にやってきのは例の太った看守ではなく、親衛隊でも高位とおぼしき制服を着、髪をきっちりと刈り込んだ固い印象の男だった。
「アロー・シランバ。アロー・シランバは貴様か?」
私に呼びかけるというよりは詰問するように彼は言った。態度は高圧的だったが、以前の看守と違ってその態度からは誇りのようなものが感じられた。感情的になることはあっても、親衛隊として越えてはならない一線は守り抜いているという印象を受けた。このとき親衛隊員の男は何者か名乗らなかったが、後に彼がヤッキマ・パーランであると知った。私を逮捕するために親衛隊員を遣わした本人である。
「私です」
檻越しに歩み寄ると、彼は私を値踏みするように見てから言った。
「高位な方が直々に貴様を尋問して下さる。着いてこい」
彼が手を振ると、親衛隊詰め所で控えていた看守たちがふたり走ってきた。彼らはヴァジンを慎重に遠ざけてから檻の鍵を開けると、私に手錠をはめて引き立てる。彼らは以前のように乱暴な動きをすることはなかった。妙なことになったな、とヴァジンと目配せする。そして、危険なことはないようだと互いにうなずいた。
ヤッキマが「高位の者」と言っていたのはどうやらかなりの人物のようで、最初に連れて行かれたのはシャワー室だった。臭気を落として用意した着替えを身につけろとのこと。願ってもないことだったので楽しんでシャワーを使った。それから新しい囚人服を渡され、尋問用に用意された部屋で待たされたのだが、この部屋がとても囚人用とは思えぬ豪華なものだった。普段は親衛隊が応接に使っているものなのだろう。脚に見事な細工の施されたテーブルとソファが用意されており、チェストもかなり古い貴重品だと思われた。誰が来るのか、と、私にも心配になってきたほどだ。
やがて報告のために席を外していたヤッキマが戻ってきて「これからお話しくださるのは親衛隊の隊長である。失礼のないようにせよ」と言ってきた。私は「なんだ、身内の偉いさんというだけか」と拍子抜けしたのだが、もちろんそれは口に出さなかった。しかし、満を持して登場した隊長、ボルテル・サーリを見た私は、その威圧感と完璧さに、この扱いもかくや、と感じ入ってしまった。
ボルテルは実にさりげなく部屋に入ってきた。理想の人体はダンサーのそれだとはよく言われるが、彼の肉体と動きはまさに一流ダンサーのそれだった。いかように動こうとも軽やかで音を立てぬ完璧なまでに洗練された歩行だった。身長は驚いたことに一サージェンほどもある。だが、その体つきは高身長の者によくあるように顔や手が極端に大きいものではなく、長身にふさわしい絶妙なバランスを保っているのだった。軍の礼装を身につけていたが、そのシルエットは筋肉の盛り上がりによって崩れてはいない。ヴァジンとあわせて短期間で二人の超人的な肉体を目にしたわけだが、ヴァジンを野性動物のそれとするなら、ボルテルは人間の究極のそれだった。
彼はソファを回り込んでくると、驚いたことに私に握手を求めてきた。私は反射的に立ち上がっていた。彼の手は繊細でありながら力強かった。こちらをじっと見てくる瞳は青で、表情と同様に穏やかだった。もちろん顔立ちにも完璧さを損なうものは何一つない。睫毛の並びすら等間隔だった。金髪は短く、紳士的になでつけてある。まったく理想の人間とはこのようなものだろう! 私はすっかり自分の矮小さに恥じ入ってしまっていた。
促されて再び座る。緊張する私にボルテルは相好を崩して親愛の情を示す挨拶を済ませた。自分が親衛隊の隊長でであること。王を尊敬していること。逮捕を不当だとは思っていないことなどだ。そんな前置きを終え本題に入ると驚愕の言葉が聞こえてきた。
「実のところ君を釈放するように勅命があったのだ」
私は失敬にも聞き返していた。。
「王が?」
「そう。私に命令できるのはただおひとりだ」
ボルテルは不快を示しはしなかった。私は息を呑み、どう言葉を発したものか困惑した。
「歌い手の彼女、ソイレ・ランタッタ嬢の逮捕を察せられた王は、彼女を保護した後に君のことをお知りになった。歌詞が君の手によるものだとお聞きになり、釈放せよとのお言葉となったわけだ」
その説明でようやく困惑は去った。なんと、あの歌は確かに王にも届いたのだ! 満足感に緊張も解けていく。頬が緩んできたのを感じる。
「勅命は法に優先する。こちらとしても君を今後は客人として扱うことになる。そして、いずれ王は君を食事にお召しになるだろう。だが、それは少し先のことになる。遠からず王の名においてお触れがあるが、王は現在、お怪我をなされている。詳細についてはお触れで知るといい。ここでは説明はできない。さて……」
そこでボルテルは目を細めた。その表情に笑み以上の何かを感じる。
「……君はそれまで自由の身となるわけだ。そこで君にお願いしたいことがある。街に戻ったならば、君に接触して来るであろう人間主義者について情報を収集し、我らに報告してはくれないだろうか?」
人間主義者! その直接的な物言いに居心地が悪くなった私はソファに座り直さなければならなかった。人間主義者とは、神人を否定し、あらゆる人種的格差を解消した社会を作ろうという思想を持った連中のことだ。なるほど親衛隊の主たる敵はアバイ・カステルのような自称「近代的進歩主義者」、その実は「暴力革命家」という類いなのだろう。私にとっても彼とその仲間を追い込んでいくのは感情的に肯定せざるを得ない。だが、当然ながら親衛隊の手先になることに抵抗はあるし、できれば面倒ごとからは逃げ出したい。その逡巡を見抜いたか、ボルテルは微笑んで続けた。
「もちろんこれはお願いだ。君には選択権がある。が、その間、我々は君を客人として軟禁することもできる。脅しになってしまうが、君が彼らの仲間であるということを考えなくてはならなくなるからね」
結局、選択権はないということだ。そうなると聞いておかなければならないこともある。
「現在、彼らについてはどの程度把握しているのですか?」
「世界的に組織化が進んでいる。表向きの運動としては学者や学生の歴史、政治学勉強会として。政治参加のための政党化もロートゥア以外では進行している。裏では革命組織が結成されている。君もその程度は知っているだろうが、問題はシャンダイを中心に一斉蜂起と革命戦争が計画されていることだ」
いきなり私には荷の重い話だ。ロートゥアではカステルの政治への浸透というところなのだろうが、シャンダイを中心にしての一斉蜂起となると大事だ。シャンダイは隣国ヘプタルの都市で、現状ではまったくの友好都市だ。ロートゥアの進んだ動力技術も供与されている。それががらりと政治体制が変わって襲いかかってくるとなると、その惨状は正視できるものとはならないだろう。まして世界はいまだ自動車での戦争を体験したことがないのだ……。
「一大事なのはわかりますが、私にどうにかできるとはとても……。それに人間主義者たちが私に接触してくるとは限らないでしょう?」
「どうであれ我々は王の命には従うのだよ。だがね我らには治安を守る義務と誇りがある」
ボルテルは先ほどまでと変わらぬ笑顔だった。傍らに直立不動で控えていたヤッキマが何事か言いたげに震えていた。それで私も彼らが本当は何を私に言いたいのかを遅まきながら理解できた。親衛隊は私の出自を探って人間主義者との繋がりはないと見極めてはいるだろうが、私の思想と行動が彼らに利用されかねないと考えている。だが、王の手前、私を釈放しないわけにはいかない。それならば、との妥結点が私を協力者に仕立てることなのだ。最低限でも、私は親衛隊に監視されていことをと自覚しろということだ。なるほど、そういうことならここは素直に従っておくべきだろう。
しかし、ここで私の生来の性質というか、宿痾のようなものが頭をもたげてきた。どうせ乗りかかった船ならば大航海に大冒険といこうと考えてしまう。そして浮かんでしまった面白そうな考えには逆らえない。
「わかりました。できる限り働きましょう。しかし、私には荷が重いのも事実。まして身の危険がある仕事でもあるでしょう。そこで僭越ながら申し上げます。もちろん私の身勝手は承知ですが、ボディガードが欲しい。同房のヴァジンを釈放して同じ任務を与えてはくださいませんでしょうか?」
それを聞いたボルテルは眉一つ動かさなかったが、ヤッキマは思わず怒りの息を漏らして身体を揺すっていた。私はそれでもボルテルから目線を動かさずに平静を装っていた。
ボルテルがヤッキマにヴァジンの罪状を確認した。ヤッキマは扉の外まで行き、そこで控えていた部下に書類を持ってくるように命じた。やがて戻ってきた部下から書類を受け取り、それをボルテルに渡す。
「暴力事件か。一対多数だが、捕まったのは彼だけ。相手に何か特別な事情が?」
ボルテルがヤッキマを振り返る。不機嫌さを表情に出していたヤッキマだったが、それを慌てて引っ込め、書類を再確認すると答える。
「我々が懇意にしている良識ある商店主の息子たちです。すでに成人しておりますが、少々やんちゃなところがあるようで」
成人しているのにやんちゃもないものだ。親衛隊が懇意にしている商店、というのも引退した親衛隊員が経営しているというところだろう。ボルテルはそれを聞いて吐息だけで笑った。
「差別的扱いを受けたわけだ。ヴァジンなる人物、南方の人のようだからね。実にいいじゃないか。人間主義者たちは彼を仲間に入れたがるはずだ」
ボルテルの言葉にヤッキマは耳を疑うかのように目を見開いた。
「それは、つまりこの男の言うとおりに……?」
「その通り。ヴァジンをつけてやりたまえ。気になるなら監視は君がやるといい」
そう言って、人類最高の微笑みをボルテルはヤッキマに投げた。
※ 共産主義者の階級闘争を揶揄したものと思われる。
※※ ロートゥアからは東南にあたる、かつての遊牧民の作った都市。
※※※ 成人年齢は一八歳。




