獄中における初頭学問講義
学問は分類することからはじまります。誰でも魚と鼠が違うものだということはわかりますが、これが魚と蛙となると違いが少しわかりにくくなる。鯉とナマズとの違いは、ナマズと蛙の違いよりどの程度大きいでしょうか? 分類というのも簡単ではないということがわかってもらえると思います。
さて、分類というのは、すべてのものの中に、同じことと違うことを見つけるということです。最初は食べられる植物や動物について分類することが重要だったでしょうが、学問となると意味が変わってきます。厳密に同じところと違うところを見つけ、分類しなくてはなりません。先ほどのナマズと蛙という話であれば、どちらも脊椎があるという意味では同じであり、成体になると手足が生えて肺呼吸をするという点で違います。もし蛙がオタマジャクシのままであれば、魚類に分類しなければならなかったかもしれません。
今の例では分類が学問のきっかけとなるということはわかりにくかったでしょう。ですが、生物だけでなく、無生物や人工物までも分類する、それどころか概念や知識までも分類して名前をつければ、学問が見えてきます。建築のことは建築学、気象のことは気象学、ということになります。
これらを踏まえた上で考えれば、一人の人間が大体でも修められる学問はとても限られたものになることはわかってもらえると思います。そうなると世界をひっくり返すような発明や発見は、専門の職業でこつこつ研究しなければならないことになります。しかも、発見できるかどうか、それが世界をひっくり返すようなものかどうかはやってみないとわからないし、例えば高性能爆弾のような発明ができたとしても、それを使うのは発明者ではないでしょう。その成果によって世界をひっくり返すような学問というのは、それほどないということですね。
世界をひっくり返すような発明がそれほどないと言いましたが、少数ならばあるということです。その少数とは、宗教学と政治哲学です。それらを勉強することで得られるのは、他人を操るための方法だからです。宗教は生きる目的を与えます。それは国家をまとめ上げる上で役に立つのですが、同時に破壊することもできるのです。ヤリャフの信徒達は神の名の下に死ぬことができました。信徒が他の学問の修得者であれば、その学問は教会のものとなるでしょう。そして、教会が人々を管理する方法こそが政治哲学で学べるものなのです。
分類の話に戻ります。では宗教学や政治哲学は、学問としてはどのような位置づけになり、何を学べばいいのでしょう? 大きな分類として学問全体をみっつに分ける考え方があります。論理学、自然科学、精神哲学です。精神哲学はさらにみっつに分かれ、それは記憶、理性、想像です。ざっくりとしすぎていてかえって難しいことになりましたが、政治哲学は記憶と理性に分類される学問全般の組み合わせで出来ています。記憶からは歴史学、理性からは道徳学というところです。具体的に言えば、歴史と道徳を学ぶことにより、政治家達と対等に話し合い、国を動かしていくことができるようになるわけです。
宗教は論理学から存在論を中心とした神学を学ぶことになります。これは歴史額や道徳学よりは一般的に想像しにくいでしょうが、簡単に言うと「人間がなぜ存在しているのか?」と「神は存在するのか?」についての学問です。さらに細かく言うと「存在とは何かについて考える」ということになるでしょう。
まとめると、歴史学、道徳学、神学となりますね。これまでの話のせいで難しく見えたかも知れませんが、はっきり言えば、これらは自然科学よりも学びやすく簡単だと言えるでしょう。本が読めてそこから考えることができれば道具は必要ないですから。
では実際に「どうして法律を守らなくてはならないのか?」について学問的に考えてみましょう。歴史的には「神が法律を決めた」と考えられていることがわかると思います。これは道徳でもあります。「他人を殺したり他人のものを盗んではいけない」が基本ですね。では命とは、所有とは何でしょう? ここから先はややこしいですが、常識の範囲で考えれば命や所有については理解できることでしょう。ところが、現在では法律は王が決めるものです。王は神人ですから神には近いと考えられています。そして、王が蓄積された知恵と偉大な知性を持っているのは確実です。しかし、王と我々人間との違いを考えてみましょう。その違いはそれほど大きなものではありません。神人から人間が生まれたのですから。そして、ここ何年も神人は産まれていません。神人の出産はありましたが、いずれも人間で、神人の長命を得ることはありませんでした。神と神人の違いもそのようなものだとしたら、神と人間の違いもそれほどないかもしれません。
ここで「法律を守らなくてはならないのは何故か」に戻りましょう。人間と神に違いがそれほどないなら、法律は神々の間の契約という話にしかなりません。法律は我々一人一人がそれについて承知し、互いに円滑に世界を回すためだけに存在している、という結論になります。これが学問の成果です。学問によって世界の見え方が変わったわけです。
もっとも、これはひとつの考え方で絶対に正しいとは言えないものです。結局「本当に正しいものは何か?」ということはわかりません。それでも人を動かす思想にはなり得たのです。このように先ほどのみっつの学問は危険でありながら、簡単で効果的なものなのです。問いを「神と何か?」「生物とは何か?」「所有とは何か?」に変えても別の結論が得られることになるでしょう。それらのうち自分でも信じ込めるものを他人に広めれば、世界は段々と変化していきます。それこそが世界をひっくり返す力なのです。
私は現在では「神とは脂である」という論に傾いています。この世界で脂を持っているのは生物だけです。鉱物から油脂が出るといっても、それは古代生物の死骸が積もったものです。まして、竜の脂が持つ力については言うまでもありません。神は脂肪分を持っているはずです。脂の中にこそ真実がある。油脂の循環こそが世界のありようであり、唯一無二の真実なのです。そこに生命の平等性と同時に差違を見いだすことができるのです。
さて、そこからどう発展していくかはともかく、今回の話は丸々記憶しておいていただければよい話です。学問の大事さと出来ることがわかったならば、次からは読み書きを教えます。新聞は読むことができるはずなので、それを読みながら内容を解説していくことにしましょう……。




