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留置所の猛獣ヴァジン

 というわけで私はわけもわからぬままに逮捕され、留置されることになったのだった。私にも多少なりと法律知識はあったが、もちろん親衛隊に通じはしなかった。それに完全に無実というわけでもなかった。ともかく私には【王への請願事件】の首謀者と言われるだけの理由はあったわけなのだから。その時は人生が終わったと本気で思っていた私の錯乱ぶりと絶望は端から見ても相当なものだったろうが、それほどに扱いは最悪だった。


 留置所は親衛隊詰め所に隣接した、だだっ広く薄暗い空間で、いちばん似ているのはサーカスの猛獣飼育所だ。何もない空間に鍵のかかる檻が並べられていて、詰め所側から端から端まで見渡せるようになっていた。檻は二人まで入れる大きさで、数はだいたい五〇ほどもあっただろうか。当然ながら衛生状態はひどく、洗わない獣の臭いが立ちこめていた。各部屋には用便バケツとマットレスと毛布が人数分あり、それと長期収容で汚れた人体が立てている臭気だった。


 わずかな持ち物は預けさせられ、服も下着以外は自殺防止とかの理由で簡素なものに替えさせられた。薄手で防寒効果はさほどない。今が春でなければ死んでしまっていただろう。この持ち物没収時に法律がどうのと抵抗したのが気に障ったのだろう。担当看守の親衛隊員は、まだらに頭のはげた太った中年だったが、不機嫌で威圧的であったばかりか、私を檻に運ぶ段になって何か思いついたとばかりに嫌らしそうに笑うと「猛獣と同じ檻に入れてやろう」と脅してきたのだった。


「猛獣? そんな! 冗談じゃない」


 私は慌てて留置所全体を確認した。が、もちろん虎などいない。


「いや……やっぱり冗談だ。猛獣なんか見えない」


「そうかね? 俺たちは人間以外の飼い方を知らねぇが、中には人間と飼い方が同じ猛獣ってのがいてなぁ。ま、見ればわかる」


 看守は嫌らしい笑顔のまま私をひとつの檻の前まで連れて行き、腰の鍵束で鍵を開くと、私を勢いよく中に蹴り込んだ。


「痛え。何をするんだ!」


 倒れ込んだ床から身体を起こし、看守を振り返ると、彼は私のすぐ近くの背後を指さして得意げにしていた。思わずそちらを見ると、そこに人が座っていた。なんだ人か、では済まされなかった。


 その人物は私と同じ囚人服を着て、ただ静かに座っていた。だが、それだけで身の危険を感じるに十分な野性を彼は全身から発散していた。人間ではあり得ない筋肉量だ。生物の分類が専門の私が言うのだから間違いない。太っているという印象はまったくないが、普通サイズの囚人服が内側からはちきれんばかりになっており、無駄な脂肪はなく、皮膚の表面には太い血管が浮き出ている。研究のために身体の毛を刈った虎を見たことがあるが、それによく似ていた。まさに危険な暴力性の権化だ。しかも肌は褐色から濃い黒で光沢があり、まさに赤銅竜のようで、とても傷つけることができそうには思えない。私は人種にはまったく疎く、南方から連れてこられた奴隷人種だろうとしか推測できなかった。


 心理から来る恐怖より、生理から来る不安の方が、より人間を怯えさせる。私は完全に身体の自由を奪われたようになってしまい、ただただあいつが近づいてきたらどうしようという思考だけが脳を支配し、その警戒のために彼から目を離すことができなくなっていた。背後から看守の「そいつはコワモテの集団に襲いかかって十人以上ノしてるからな!」という笑い声がした。


 男は微動だにせずにこちらを見据えていた。赤銅色の肌に映える白い目は獲物を狙っている猛獣のようでもあり、意志を持たぬ着色彫刻のようでもあった。いずれにせよ何を考えているかはまったくつかめず、話が通じるかどうかもわからない。縮れた髪を長く伸ばして複雑に編み混んでいるは文明的と言えたが、看守の言葉通りなら市民に襲いかかったということで、それが野蛮な文明でないという保証はなかった。


 私は四肢が完全に麻痺していたが、目だけは意志に反して彼を凝視していた。その瞬間、悲鳴を上げたかどうかは私自身わからなかったものの、背中が檻にぶつかった衝撃だけは理解できたから、反射的に飛び退いていたのだろう。しばらく意志のわからぬ視線を私に返していた彼が、ゆっくりと立ち上がったのだ!

 彼は怯える私にするりと獣の素早さで近づいてきた。そして私に覆い被さるように身体をもたげ、がしゃりと檻に手を突いた。殺される! ……と思いきや、それから何も起こらなかった。


 怯えて視線をあげると、彼は看守の制服の腰ベルトを檻に結びつけていた。私が襲われると思っていた看守は特等席でそれを見物しようと檻に近づきすぎていたというわけだ。檻の隙間は腕は無理としても手首程度までは突き出せる。垂れていたベルトを器用に指でつまんで引っ張ってきたのだろう。


「な、何をする!」


 気づいた看守が声をあげて後ろに下がったが、ベルトは檻の中で結び目を作られてしまい抜けなかった。ほどこうにも檻に接近して看守が指を中に入れなくてはいけない。


「き、貴様! ほどけ! くそっ! この猿が!」


 看守はわめいた。周囲から笑い声があがる。他の囚人たちも息を飲んで私のことを見守っていたのが、状況を察したのだろう。看守に対してはやし立てる者もいたが、、今はただ爆笑するだけでも看守に屈辱を与えるには十分だった。


「恥をかかせたな! クソっ! 貴様っ! この後、どうなるかわかってるんだろうな!」


 顔を真っ赤にしながらベルトを引っ張ってガシャガシャとやってさわぐ看守だったが、ベルトをほどきに近づいては来なかった。指を入れれば何をされるかわからぬと怯えているのだ。


「お前の言うとおり俺は猛獣にもなれる。指を入れてみなさい。食いちぎるかもしれない」


 彼は公用語で言った。その落ち着いた知性的な響きには驚かされた。「言葉をしゃべれるのですか?」と問いかけそうになったが、それがあまりに彼に失礼であると気づき、私は口ごもった。


「え……。その……」


「私は猛獣だとも。好きなだけ怯えなさい」


 彼は私にほほえみかけた。


 私の心に一瞬にして熱がともった。自身の頬の紅潮を感じた。衝動的に叫んでいた。


「怯え敬うともさ! 偉大な猛獣!」


 人間は嫌悪と同様に、敬意も一瞬にして抱くことが出来るのだ。


 それから、騒ぎ立てる看守を笑いながらも、手短に彼のことを聞くことが出来た。ヴァジンが彼の名前だ。南方の遠い遠い国の出身で王族と争ったことで国を出たのだという。地域や国名の詳細を聞こうにも彼はそれ以上に細かい説明手段を持っていなかった。それは私が帝国の外に出たとして帝国のことをあまり説明はできぬということに似ている。そして、説明が上手でないことを知性が足りぬと誤認してしまうのは、私のような学問を行っている者の犯しがちな罪なのだろう。


 知性。そう、ヴァジンは知的な人物だった。結びつけられたままの看守を指さして言うには、「彼は看守だが、看守は猛獣について判断をする仕事ではない。厳密に考えるならば」とのことで、まさしくその通りだった。


「しかし、看守が支配的に振る舞うのは当たり前の現象でもあるんだよ。権限を与えられるとそれを拡大してしまうというのは人間の悲しい習性というところだ」


 私は大学で学んだ知識を披露した。一方、ヴァジンは経験からのものだろう。私は自らの経験のなさを恥ずかしく思った。所詮は机上の知識で行動しているから投獄という結果になったのだ。私には世間知が足りていない。そう思うと、急激に高揚した気持ちが萎えてくるのを感じた。


「だけど、そういうことを知っていても、使える知識かどうかは別だ。大学で何を学ぼうが、ここで一生過ごすことになってしまっては何の意味もない」


 ため息が口から自然と漏れてきて、自分でも涙の兆候が喉から上がってくるのがわかった。さすがに恥ずかしいところを見せるわけにもいかず、上を向いてため息よりも長く息を吐き出す。


「済まなかった。私のせいで君が看守より不利益を受けるかも知れなかったな」


 ヴァジンは私の様子に驚いたように口を開いた。


「私は自分を紳士であるとしている。紳士が愚弄されたのだから愚弄を返さなくてはならない。しかし、君には一切関係のない話だった。それならば、君は私のしたことに責任を負うことはないだろう」


 擁護するように言って、ヴァジンは看守に歩み寄ると、結んだベルトに手をかけた。


「君は私を恨み、理の通らない損害を私に与えようとするだろう。その損害は私が受けよう。彼には損害を与えないでもらいたい」


「お前と取引だと! どういう立場かわかっているのか?」


 看守はわめいた。今なら看守の気持ちもわからないではない。愚弄された上に、我々は彼がいないかのように会話を続けていたのだから。


「取引ではない。人には誇りがある。私もそれはわかっている。君はそれをむやみに傷つけるべきではないと言っている。私は寛大な処置を願っているのだ」


 ヴァジンは交換条件としてでない証に、返答前にベルトをほどいた。


 看守は素早く檻から離れると「上に報告しておくからな! どうなるか見ていやがれ!」と怒鳴って素早くその場を去って行った。まだ笑い声をあげている囚人のいる檻に蹴りを入れながら。


「私がなんとかできる限りはなんとかしよう」


 ヴァジンは気を遣うように私の肩に手を置いた。これでは私がまるで泣いている乙女のようだ。この環境下で情に篤い男がいるというのは心強いことだったが、さすがにその扱いのまま過ごすわけにもいかない。泣いていないで先のことを考えないといけないのだ。


「こちらの迷惑は考えなくてもいいよ。あれで良かったと思う。私も君を怖がっていたことだし。私も自分のしたことが悪だったとは思っていないよ。逮捕は理不尽だと思っているが、おかしいことはおかしいと訴え続け、どんな環境でも生き残るしかないということだ。先は長くなると覚悟したよ」


 私は言って、自分用のマットレスに座り込んだ。ヴァジンはまだ心配している様子だったが、元いた自分のマットレスに腰を下ろし、口を開いた。


「こちらからは君の話を聞こう。何をしてここへ入ったのだ?」


 会話で私の気を紛らわせようというのだろう。私も雑談に乗ることにした。何より時間はこの先もたっぷりありそうだ。


「歌により王への請願を行ったというのが罪だそうだよ。私は罪とは思わないが、ともかく騒乱を起こしたのは確かなんだ」


「君も王に逆らったのか」


「逆らったわけじゃない。お願いをしただけ……歌詞を書いたのは私だからね」


「王の器が試されるということだな」


 ヴァジンがうなずいた。周囲がざわついていた。どうやら王への請願を行った首謀者が私だということに気づいて注目してきたということのようだ。どうも檻の中までも例の騒ぎは届いていたらしい。「あの歌の……」「歌詞の意味はわからなかったけど親衛隊どもが騒いでたなぁ」などというささやきも聞こえてきた。その雰囲気に促されて隣の檻の者が「なあ、本当にあんたがやったのか」と聞いてきた。


「意図してやったかというとそういうわけでもないんだが、そういうことになってしまったわけで。いや、どうしたものか」


「あの歌は凄かったよ。まさか歌まであんたが歌ってたって風でもないけど」


 隣の檻の男は、小柄で髪を短く刈り込んでいた。にやりと笑った口には歯がかなり欠けていた。


「もちろん私じゃない。すごい歌手がいたんだ。彼女、つかまってなきゃいいけど」


「女は別の房になるんじゃないかな。つかまるかもしれないのかい?」


「いや。正確にどうとかは言えないけれど、兄が一緒にいるから、彼がこっちに来なきゃ彼女は大丈夫ってことだよ」


「そうなのか。はぁ、しかし、大学出てるとそんな歌姫とも知り合えるもんなのかい?」


「そういうことはないけど、大学で勉強していないと話が通じない人ではあるかも」


「はぁ、うらやましいねぇ。俺らとは住む世界が違うってこった」


 嫌味というわけでなく、悲しげに歯欠けの小男は言った。世界が違うというのは比喩であったが、一面事実でもあった。竜から得られた動力機械で起こった産業革命により世界は豊かになったが、格差は開いている。神人に近い血筋でなくとも新職業で成り上がれるようになってから、さらに差は開く一方となった。犯罪者の中には貧乏人が多いというのには、もちろん教育を受けられないことで収入が多い仕事に就きづらいことも手伝っている。今では文字が読めなければできない仕事がほとんどになっているのだから。


「それでもこの場では差はないってことでしょ。親衛隊からにらまれたってことでは」


 私は少し笑った。すると歯欠けの小男はそれを否定した。


「いや、やっぱりたいしたもんだよ。俺らは普通にせこい罪で何度もここに出入りしている奴らばっかりだからね。あんたのやったことはでかいもの」


「でかいこと?」


 思わず聞き返していた。それでも返ってきたのは肯定だった。


「そうだよ。やっぱり王様や親衛隊に刃向かうなんて中々できない」


「……そうなのかな。でも、学問がなければそうはならなかったとも言えるし」


 私が何とも返答に困っていると、ヴァジンが励ますような声で割り込んできた。


「いや、学問は大事だ。私もこちらに来るようになってから学問の大事さは身に染みている。そして学問があれば、もっと大きなことができるだろうということも同意する。ここがそれほど大きな国でなければ学問によって転覆させることも可能だとわかった」


 励まそうとしているにしても無茶な方向に話を持って行くものだが、どういうわけか他の囚人たちもヴァジンの言葉に色めき立ちはじめた。


「国家を転覆かぁ。いいなぁ」「学問があれば他人を脅す言葉が書けるってことだしな」「国を動かす側に回りたいが学問があればいいのか」「親衛隊だって元々は頭が悪そうなのばっかりだぞ。学問さえ受けてれば俺たちもああなれるんだって」


 必然的に彼らの目は私に向いてくる。


「学問で国家を転覆させるってどうやるんだ?」「読み書きとか計算は退屈でいけねぇが、そういう話なら勉強する気にもなれるってもんだ」「どうせ出られねぇんだから、いっちょ先生に学問のことでも話してもらうか」「授業だな。退屈しねぇように頼むわ」


 勝手にどんどんと話は進んでいく。私も暇ではないと言い返しそうになったが、事実としては衆目一致で暇なのであったから、そういうことになった。

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