旅立ち
どう語ったものか! 語るべきことはいくつもあり、書くための情熱も竜の血のようにたぎっている。不思議な使命感が気をはやらせ、頭を混乱させている。ともかく書かなくてはいけないことが脳髄に蓄積されている。過去の、あの狂乱の日々の記憶をいちどきに思い返し途方に暮れているのだと読者諸兄には慮っていただきたい。長く、悲劇に終わってしまった旅だった。だが、そこまでに至る日々は笑いと熱に満ちていたのだ!
さて順番にいこう。私はアロー・シランバ。あまり裕福とは言えぬ家庭の出ではあるが、それなりに立派に成長した。それなりに立派というのは……いや、私の生い立ちからはじめるとなれば回り道とも見えるが、そうしなければならない理由は私が幼少時に買い与えられた一冊の本にこそあるのだ。かのニルス・カレワラ博士の『博物誌』抄訳本である。偉大なる博士の偉大なる書物は私に大きな影響を与えた。どれほどだったかといえば、幼少の身にして、というか幼少の無知がなした蛮勇なのだが、私は帝都大学にカレワラ博士を訪ねて行ったほどだ。通常なら自らの幼さを思い知る羽目になっただろうが、いかなる奇跡か、親切な大学衛士は博士に約束なしの面会者があると伝え、いかなる気まぐれか、博士は私を研究室に迎え入れてくれたのだった! 人生には必ず奇跡の出会いがあるものだ。
研究室はまさに世界の謎に満ちていた! 左右の壁面を埋め尽くした棚には様々な生物の標本がずらり並んでいた。それは『博物誌』に美麗な図版で示されていた生き物たちだった。いや、いまだ記されていないものもあった。主に小魚、蛙のような小さなもの――『博物誌』からは外されたのだろう。いまだ記憶しているが「まだらラピ蛙」がいたはずだ――を中心に、四足獣の剥製ですらいまだにその名がわからないものまでいた。あれはどこか異国で最近滅んだということなのだろうか……。いや、話の先を急ごう。カレワラ博士の研究はこの世の生物のすべてを知ろうとするものだった。学問的に言えば博物学、分類学となる。あらゆる事象を網羅し、整理し、対象の詳細はそれぞれの専門家にゆだねるも概要までは記しておく。知的好奇心を数式に変換したかのような学問である。その分類方法は後に記すとして、興奮の頂点にあり目を輝かせてそれらの生物を見つめる私にカレワラ博士が語ってくれたのは、それら万物の事象を分類したとき、何を基準にすべきかということだった。
――すべての事物は竜に帰結する。
それが真理だとカレワラ博士は教えてくれた。「人間や、人間の神祖たる神人こそが世界を統べているのではない。竜は人間も神人も、もちろん全ての動物を食べることも殺すこともできるのだ。おまけに無生物すら食べる。だからこそ世界は竜を中心とすることで見えてくる。世界は竜で循環しているのだ」と。神人、人間、竜、この三者だけは『博物誌』でも特別にそれぞれ一冊を割かれているが、その中でも竜を中心とするのが博士の世界観なのだ。そして、私の研究からしても、それはまさにその通りなのだった。
私の研究とは僭越なことを言ったが、その後、当然のように進むべき道を博物学者に定めた私は、カレワラ博士と手紙をやり取りする栄誉に浴し、博士からの奨学金推薦のかいあって十年後には帝都大学に進学することがかなったのである。まことに残念なことに私が入学する前年にカレワラ博士はなくなられたが、私はその弟子であるカルペ博士に師事することができた。
やはり長くなったが、私が大学で竜を研究する学者となったことこそが、この物語の発端なのである。卒業が決まった私は学者として身を立てるために本を書かねばならなくなったのは当然として、その内容に今までにない書き口を選ばねばと気負っていた。そして、私が思いついたのは、竜狩りに自ら身を投じ、その体験談とそこで得られる竜の解剖学の知見を記すことだった。
竜狩りは帝国でも最重要とされる職業でありながら、その実態は知られていない。それは許可制であることもそうだが、なんとなればいわゆるタブーであることが最大の理由となるだろう。竜はやはり神聖なものであり、それを殺す竜狩りの人々も自然、世間のいわゆる一般人からは避けられる特別な存在とされる。これまでも研究者がそれを紹介することはほぼなかったはずだ。
その思いつきは私の冒険心を奮い立たせた。竜狩りに加わるのだ。巨大な車に乗り込み、大地を駆けて竜を追い、鋭い銛を打ち、吠え猛るあの竜狩りたちの横に立つのだ!
そうとなれば早い方がいい。貯金をはたいて旅の装備をかき集め、大型の鞄に詰めた。私は大学に籍があるという以外は身一つになったといっていい。さて、そうなればどこへ行くのか? もちろん目指すのは竜狩りの街、都市国家ロートゥアだ。
※ 主人公であり視点人物となる。しかし、後の記述では彼の知り得ないことも描かれている。
※※『カレワラ』はフィンランドの国民的叙事詩のことである。主人公の恩師となる博士にその名がつけられていることから、原典制作者が本作を叙事詩として意識していたことがわかる。