〈歩〉③
第四部は魔王の天敵〈歩〉➂として書かせていただきました。
今回登場する老人はガクトにどんな影響を与えるのか。そしてガクトの決断は。
「覚えておるか?」と訊ねる老人の声はとても穏やかだった。ガクトを椅子に座らせて茶を出してくれた。それは熱くもなく冷たくもなくのほど良い温度であった。緑茶で優しい味がした。
祖父母を知らないガクトは自分に祖父がいればこんな風なのかな、と想像してみた。
「あの……ありがとうございます。でも一体何が何やら……」
老人は首を縦に二回振ってそうじゃろう、と言った。その目は本当に開かれているのだろうか、と疑うほどに皺で細くなり、そして顔は茶に向けられていた。
本当にさっきの様に見開くことができるのだろうか。
「お主はのぉ、そこん所の川辺に倒れておったんじゃよぉ。目の前に倒れている人間がおりゃあ助ける。助けなけりゃあ人じゃないよのぉ。ほれ、そこじゃ」と窓を指差した。
窓の外には草原が広がっており、その下には川が流れていた。その川の水は透き通り、泳ぐ小魚までもがはっきりと見えた。
「そうでしたか……一緒に女の子が倒れていませんでしたか?」
思い出した。ミサに助けられたのだ。サルモドキという魔獣に襲われ殺されそうになって、それを彼女に助けてもらった。恐らく下が川になっていて助かったのだ。
しかし、トラマルは殺された。ブラストはどうかわからないが囮になって――あの親に会わなければ何とかなるだろうが。
「彼女なら少し前に頼まれた山菜を取りに出て行ったわい。何処まで行ったかのう、……まぁ何処までもは行けんじゃろうて、待っていれば戻ってくるわい」
何処までもは行けない? こんなに広いのだから行きたい所まで行けそうなものだが。そういえば、この窓の外の景色は綺麗すぎる。今までトライデントの麓にいたはずだし、夏季の終わり頃だから少なくともこんなに春らしい景色が拝めるのはおかしい。もっと緑は茶色くなるべきだ。タンポポやツツジ、菜の花は咲くべきではなく、菊やコスモス、萩が咲くべきなのだ。
しかし、窓の外にはタンポポもツツジも菜の花も咲いていた。そこに秋の風は吹いていないのだった。
「ここは何処なのですか?」
老人は首を傾げ、「お主らはトライデントの試練に挑戦しようとしていたのではないのか?」
「確かにそうですが、今は夏季の終わり頃です。あんなに春らしい秋は見たことがありません」
その時、老人の顔がすっとこちらを向き、片目をカッと見開いた。そしてニヤッとした顔にはいっそう皺が増えた。
「良いところに気が付く奴じゃ。案外頭は良いのかもなぁ。……そろそろじゃな」
その老人の言葉の後にはガチャッという音と共に一人の女の子がバスケットを持って部屋に入ってきた。
その顔に見覚えは無いと思った。セミロングの金髪にウェーブがかかっており、口はきゅっと閉じて愛らしい。しかし、睫毛の印象的な目には見覚えがある。そうか! 彼女の顔の半分以上を魅惑的なフェイスベールによって知らなかったのだ。この女の子は、ミサなのか――。綺麗だなぁ、あんなのしなければ良いのに。
「あら、起きたの? あなた起きないから心配していたのだけれど、おじいちゃんが大丈夫だって言って、とりあえず山菜取って来いって言うもんだから放って行っちゃったわよ」
「さっき起きたんだ。本当に助かったよ、ありがとう。でも……他の二人は」
ミサはバスケットを老人に渡して、ガクトの隣の席に座った。老人は茶をもう一杯持ってきてミサの前に出した。ミサは茶を一口すすって、ホーっと息を吐いた。
トラマルのこともブラストのことも考えないようにしているようだった。ガクトが考えなくていいように配慮しているようだった。
「それでおじいちゃん、ここは何処なの? 彼が起きたら教えてくれるって言ったわよね」
ミサも疑問に思っていたようだ。
「そうです。ここは何処なんですか? 教えてください!」
老人も自分の前にある茶をすすった。そして皺だらけで閉じていた目を見開いて二人を見た。
その目の奥には光があるようだった。その光は誰に歪められることもなく当然の様にそこにあって、そしてその光を宿した老人の目は永遠に塞がってしまうまで、この世の光景を映し続けるのだ。また世界の光景はその光を求めて老人の目に吸収されていくのだ。
「ここはトライデントの本山に位置しておる」
「そんな筈……そんな筈ないです! 景色は春っぽいし、それにここがトライデントだと言うのなら山特有の岸壁なんかもあるんじゃないんですか?」
「そうよ。私も今外を見てきたけど、綺麗な広ーい原っぱがあるだけだったよ? 川は綺麗で小魚は気持ち良さそうで、蝶々なんかも飛んじゃってさ」
「まぁまぁ、ちょっと聞きなさいよ、若いの。ここは正真正銘トライデントじゃ」
二人は老人の話を静かに聞く体制を整える。
「トライデントはトライデントじゃが、……ここはその内部なのじゃ」
「内部……?」
「それって……」
「ここは『夢の洞窟』。世界に数か所しか残存していない聖域の一つ」
その話を聴き終えた二人の頭の中にはクエスチョンマークが浮かんでいた。
この世界には聖域と呼ばれる場所が数か所点在している。聖域は闇の住人、魔獣や罪人を拒み、魔力の一切使えない場所らしい。
崖の上から飛び降りたガクトとミサは落水した時意識を失った。この川は一度山の中を通り平原へと流れて行き海にまで続いている。しかしこのトライデントの中を通る時、十四時から十五時だけ違う水路へと切り替わるのだ。二人が流されていたのは丁度その時間だった。このことはは実際にこの『夢の洞窟』に行き着いたことのある人間しか知らない。
そしてこの夢の洞窟は老人の力によって春の景色に変容しているだけのようだ。老人は春が好きなのだった。
「で、その……せいりょく……でしたっけ?」
「聖力じゃ」
「なんかいやらしいね」
その聖力によって洞窟は春の光景をそのまま具現化しているのだ。それは全てこの老人の力らしいのだ。
「あなたはいったい……何者なんです?」
「わしか? わしは勇者じゃ、フォッフォッフォ」
ガクトとミサは老人だけあって頭がおかしくなっているのだと思った。この空間を具現化しているとか勇者だとか現実味がなさすぎる。
「本当は何者なの? おじいちゃん」
「じゃあから、ゆーとろーが。勇者じゃ。ゆ・う・しゃ」
「勇者って……ハハハ」
「信じてないのう……はぁ仕方ない。老い先短い老人に力使わせるんじゃ。しかと見とれよ」
そう言うと勇者な老人は二人の方へ順番に手を向けた。そして茶を飲んでみろと言った。二人の目の前にあったそれぞれの茶は緑茶からコーラに変わっていた。
「あれ……コーラだ……」
「そうねぇ、コーラ……ね」
老人はフフンと鼻を鳴らして得意げだ。そして次々に部屋中に手を向けて、蛇口をひねったり、コンロの火を点けてみたり、窓を開けたり閉めたり、本を手元まで飛ばして、どうじゃ? と二人の様子を窺がった。
二人は何が起こっているのか訳が分からない。
「これって……魔法?」
「違うわい。ここでは魔力は使えんと言ったじゃろう。これは聖なる力じゃ。勇者か勇者見習いにしか使えん」
「俺たち魔法すら見たことがないから区別がつかないんです」
「見たことない……」ほほうとミサの方を見る。ミサは何も言わない。
「まぁええわい。お主ら……次の勇者にならんか? ここはここから出る理由が明確にならんと出られん。それが明確になるまでは暇じゃろうて。わしも最近衰えが自分で分かるようになってきてな。次の勇者候補を探しに出ないとなぁと思っとったところなんじゃ」
勇者な老人は後継を探しているらしかった。
「次の勇者って、誰にでもなれるものなんですか?」
「誰にでもなれるものではない。しかし、なれるチャンスが巡ってくること自体がお主らをそうならせようとしているとは思わんか?」
ガクトは感心してしまった。確かにそうだ。勇者になりたいですか? なりたいです! でまかり通るようなものじゃない。
幸い五年間は町には帰らないことになっている。ここで勇者の道を目指してみても、町長の思惑的には合格なのではないかと考えた。今よりも強くなっていればいいのだ。
「俺は……勇者ってのになってみたい。本来は仙人に修行をつけてもらう予定だったけど、勇者っていう称号があればただ力がありますっていうより徳が高そうだ」
そしてまだ、ミサは黙っている。
「お主はどうする?」
その問い掛けにミサはハッとする。
そして、
「えっ、……ええ、面白そうね」
こうして二人は勇者になるべく勇者な老人の修行を受けることになったのだが、この決断こそが後の魔王復活に起因している。
この場にいる三人は二か月後に起こってしまう悲劇など知る由も無かった。
読んでいただきまして、ありがとうございます。
今回は勇者な老人が登場し、「次の勇者にならないか?」とガクトに持ち掛けました。それを承諾したガクト。同時にミサも承諾したのだが――。
次回は修行中の二人からです。