第40話
覆い茂った草花、天まで届けと言わんばかりに聳え立つ木々、近くで聞こえる小さな虫の声、そんな声をかき消すように、時折遠くから聞こえてくる獣の遠吠え。
森というものは、慣れていない者が足を踏み入れれば、どこまで行っても同じような景色が続くため、方向感覚が狂わされて、気づかぬうちに迷ってしまう場所である。
だが、そんな森の中をエルは迷いなく走る。
エルにとってみればこの森は家の庭と同じようなものである。どこに食べられる木の実があるのか、モンスターの巣穴はどこにあるとか、薬草はどこにあるのか、等を即答するのも他愛ない事である。
そんな慣れ親しんだ庭を走るエルの表情は冴えない。眉根は顰められ、目尻には涙さえ浮かんでいる。
――私のせいだ。
目尻に溜まった涙を乱暴に拭い払いながら、エルは自らを責める。
――何とかしなくちゃ。私が何とかしなくちゃ。
唇をぎゅっと噛み締め、エルは走る速度を上げる。
――早く、早くしないと――おじ様が危ない。
エルは頭の中で目的の場所を思い出す。もう、何度もしている事だ。何度、思い出しても前回となんら思い出す事は変わらない。だが、そうせずにはいられない。万が一にも目的の場所を間違えてはいけないのだ。
何故なら、ワグマの命が掛かっているのだ。
――早く、早く――あっ!
もっと早く、もっと早くと気が焦ったエルは地面から飛び出した木の根に躓き、盛大に転ぶ。まるで、それを嘲笑うかのように木々に留まった鳥たちが鳴く。
その鳴き声を聞いたエルは慌てて立ち上がり、周囲を必死の形相で見回す。
やがて、それがただの鳥の鳴き声だと分かり、ほっと胸を撫で下ろす。だが、ややあってから、エルはその顔を歪める。
――こんなんだから、おじ様が傷ついた。
顔を歪めた理由は怒り。
エルはモンスターに襲われたあの日からモンスターを極端に怖がるようになった。トラウマと言い換えても良い。
それに気がついたのはつい先ほど――ワグマがエルを庇ってモンスターに襲われてからだ。
運の悪いことに、ワグマがはったモンスター避けの魔法陣をくぐり抜けて一匹のモンスター、いや、今やモンスターとも呼べない程の低レベル(討伐推奨レベル)の蛇が迷い込んできた。
だが、この蛇、低レベルには似つかわしくない程の猛毒を有している。
人間がその蛇に噛まれると、一日目で噛まれた部分が腫れあがり、二日目には腫れが酷くなり、三日目で不思議な事に腫れが治まり何とも無くなる。だが、四日目になると再び腫れあがり、更には風邪に似た症状に罹り、五日目になると平衡感覚が狂い立っていられなくなり、六日目になると昏睡状態に陥り、七日目になるとそのまま息を引き取ってしまう。
その為、昔ならばこの毒を有しているという一点だけで、それなりの高レベルモンスターに認定されていた。
セブンスネーク。
噛まれてから七日で死に至る為に付けられたこのモンスターの名称である。
多くの者がこの蛇を恐れて森に入るのを嫌がり、一時は木材や薪、木の実や薬草等、森の恵みが急騰した事もある。
だが、それも昔の話である。
今ではこの毒に効く薬草が発見され、まるで定規で測ったかのように全身が左右で赤と白色に分かれているその特徴的な見た目も相まって、余程の事がない限り命を落とす人はいなくなった。
その為、毒がなければその辺りにいる蛇となんら脅威は変わらないと、レベルが引き下げられたのである。
余談だが、冒険者組合ではこの蛇をただの毒蛇と見なしてモンスターから除外するか、それとも毒を持っているモンスターと見るべきかで、意見が真っ二つに分かれている。
ちなみにエルフとしての認識では迷うまでもなくモンスターに分類される。
その理由は、森を住処としている為、この猛毒で命を落としたものが人間よりもずっと多かったからである。
そんな蛇が、いや、そんな低レベルの蛇だからこそか、ワグマのモンスター避けの魔法陣をすり抜けてワグマが特効薬を生成しているテントの前を飄々と横切ろうとしていた。
そこに運悪くエルがテントから出てきて、一人と一匹は遭遇したのである。
ばったりと遭遇した一人と一匹は最初、互いにその動きを止め完全に固まり、暫くしたのち、蛇が自らの危険を感じたのか、エルに向かって襲いかかってきた。
エルはそんな蛇を見て恐怖で身動きが取れなくなり、ただただ目の前の恐怖から逃れようとぎゅっと両目を閉じた。
そして、蛇がエルに噛み付こうとしたその瞬間、エルの異変に気がついたワグマが身を呈して蛇からエルを守ったのだ。
そして、魔法を使って蛇を殺したワグマは特効薬生成による過労とそれに伴う極度の魔力消費により、そのまま意識を失ってしまった。
倒れたワグマを見たエルは、これは蛇の毒のせいに違いない。と、勘違いをした。
何故ならエルが知っているこの蛇の知識が、噛まれたら薬草を飲まなければ毒で死んでしまう。という子供でも理解できる、簡単な知識しかなかった事と、あまりにも突然の出来事に混乱した為である。もしくは倒れたワグマを見て、病で倒れた村人、ひいては自らの母親の姿を無意識に重ねたのかもしれない。
焦ったエルは最初に村に備蓄されている薬草を取ってこようと思った。
だが、エルが村を出る時に目的の薬草はおろか、薬草という薬草、薬という薬が底をついている事を思い出し、慌てて薬草が生えている場所を思い出して、走り出そうとして――足が止まった。
また、モンスターと遭遇したら。
そう思った瞬間、足が竦んで動けなくなったのだ。
怖い。
ただそうとしかエルには思えなかった。
万が一の幸運に掛けて村に行こうとも思った。
ここから村まではそう遠くなく、薬草が生えている場所に行く道中よりもずっと安全だ。という理由もあったが、何よりエルの精神的にそっちのほうが楽なのだ。例え病気でまともに動ける人がいないと理解していても、一人で薬草の場所に行くよりはずっと安心できる。
だが、悩んでいた時間はそう長くない。
――何を私は考えているのっ。そんな事は時間の無駄にしかならないのに。そもそも、誇り高いエルフがモンスターに怯えてどうするのっ。
エルはそう己を叱咤し、奮起すると、倒れたワグマを引きずりながらテントの中に寝かせると、走り出した。
エルの中ではワグマのように、蒼真達人間に助けを乞う。等と言う考えは思い浮かびもしなかった。
――私は誇り高いエルフっ。
怯えた心を怒りで上書きし、震える足を走って疲れたからと決めつけ、エルは再び走り出した。
拠点兼特効薬生成所のテントで意識を失ったままのワグマを見て蒼真は最初、寝ているのかと思った。顔色が悪いのはきっと疲れているせいだろうと思った。
だから、気を利かせてもう少し一人で静かに寝かせてやろうと思って、開けたテントの幕をそっと閉めた。
異変に気付いたのはそれから少ししてから、拓也がエルの姿がどこにもないと騒ぎ始めたのと、何よりも理沙が茂みの中からバラバラになった蛇の死骸、セブンスネークを発見した事によって。
蒼真は慌ててテントの中に入ると、ワグマの体を調べる。
すると、ワグマの右腕に何かに噛まれた形跡が見つかった。
きっと、セブンスネークに噛まれたに違いない。
そう判断した蒼真は拓也に言ってリュックから常備している毒に効く薬草と包帯を取り出すと、まず傷口の処置にかかった。冒険者、いや、森に入る者であれば、セブンスネーク対策と噛まれた時の対処法は抜かりない。
エルが、エルがと、うるさい拓也をワグマの使いでもしているのだろうと一蹴し、傷口の処置を終えた頃に、丁度ワグマが意識を取り戻した。
「……儂は倒れておったのか?」
焦点の合っていない目で、蒼真を見つめて問いかけるワグマ。
「ああ、俺たちが帰ってきたらテントの中で爺さんが倒れていた。覚えていないのか?」
「……そうか……少しばかり根を詰め過ぎたのかもしれんの……これしきの事で情けない……儂も年を食ったと言う事か」
蒼真からの返事を聞いたワグマはそう言って、微かに苦笑いを浮かべると、ゆっくりと目を閉じた。
「おい、爺さん。寝る前に飲めるなら薬草を飲んでおいてくれ、さっき茂みからセブンスネークの死骸を見つけた。そして、爺さんの腕に何かに噛まれた跡が残っていた。何か覚えていないか?」
目を閉じたワグマの頬を、まだ寝るなと、軽く叩きながら蒼真が問いかける。
「……セブンスネーク?」
ワグマはそれに対して、煩わしそうに眉根を顰め、微かに目を開ける。
「そうだ。こいつの怖さは爺さんも知っているだろ?」
「……ああ、知っておるよ。森で暮らすエルフは皆、お前さんら人間よりもずっとその毒の恐ろしさを知っておる……ん? セブンスネーク。じゃと?」
徐々にワグマの目の焦点が定まっていく、と同時にその瞳に理性が戻って来る。
「刀傷よ。ちみっ子は無事か? 噛まれてはおらんかったか?」
意識がはっきりしたワグマはそう蒼真に問いかける。
その一言を聞いて、蒼真は嫌な感覚を抱く。拓也も同じだったのか、蒼真を責めるような目で見る。
「いや、俺たちがテントに帰ってきた時には姿が無かった。爺さんが何か使いを頼んだものと思っていたが、違うのか?」
「違う。儂のはったモンスター避けをすり抜けて入って来たセブンスネークに襲われたちみっ子を儂が咄嗟にかばったのじゃ。そして、セブンスネークに放った魔法で儂は運悪く、疲労と魔力欠乏で意識を失ってしまった」
「と、言う事は?」
「……恐らくじゃが、ちみっ子は儂がセブンスネークに噛まれたのを見て、薬草を取りに向かったのじゃろう。村の備蓄は底をついておったしの。とは言え、この森はジュリアンの者にとっては庭のようなもの。何、何も心配はいらん。そのうち薬草を手にして戻って来るじゃろう」
言って、ワグマはテントの出入り口で幕を開けたまま固まっていたエルの姿を思い出す。実際、固まったままのエルに一体何をしているんだと疑念を抱いたからこそ、セブンスネークの存在にも気が付け、エルを咄嗟に庇えた。
普通、エルフ、人間を問わず、セブンスネークを発見した者は刺激を与えないようにその場から離れるか、注意深く追い払うかするものである。
だが、エルが取った行動は硬直。
まるで、蛇に睨まれた蛙のように、ただ、ただ、その場で固まった。
何故、あのような行動を? と首をかしげたワグマは不意に思い出す。
そう、エルから聞いたモンスターに襲われた話を。
……まさか、あのちみっ子。
ワグマの中である仮設が思い浮かぶ。
――エルはモンスターを極端に恐れているのではないか? という仮説である。
それが一時的なものなのか、数年続くものなのか、数十年続くものなのか、はたまた命ある限り続くものなのかは分からない。
だが、そう考えれば、セブンスネークと対峙したエルの行動に納得出来るのだ。
「……心配いらんのじゃが、一応、念のために、薬草が生えている場所を教えるので、迎えに行ってはくれんか?」
ワグマの仮設が正しいとすれば、万が一という事もあり得る。普通ならば自分の手には負えないモンスターと遭遇しても逃げる位は何も問題が無い。だが、ワグマの仮設が正しかった場合、エルは何も出来ずにモンスターに襲われる事になってしまう。
「分かった。なら僕が行こう」
言って、テントを出ていこうとする拓也。
「いや、眼鏡はここに残って儂の特効薬生成を手伝って貰いたいのじゃ。重症者を優先して出来上がった薬を投与しているとはいえ、いつ薬を投与していない者の症状が変化するのか分からん。なるべく時間を無駄にはしたくない。三人の中でそういった事に一番知識があるのはお主じゃろ? 何より、そうした方がちみっ子も喜ぶじゃろうて」
「――おじいさん。いや、おじい様。僕は何をすれば良い?」
エルが喜ぶ。そう聞いた拓也の反応は素早かった。
もっとも、拓也というより、人間から、エルが何かをされて喜ぶという可能性は、ほぼ皆無であろう。ワグマもその事は分かっているが、適材適所を考えた結果、嘘も方便である。
「うむ。それで、ちみっ子の迎えには刀傷と嬢ちゃんの二人で行ってくれんか?」
眼鏡の奥の瞳を輝かせて、やる気満々の拓也からそっと目を逸らして、ワグマは蒼真に言う。
「少し休みたかったし、爺さんも休んだほうが良いとは思うが……仕方がない。了解した」
蒼真はエルのほうがこの森に詳しいのだから下手に迎えに行くよりは大人しく待っていたほうが良いと思ったが、口には出さない。ワグマの心配も分かるし、何よりそんな事を言ったら、拓也が突っかかって来るのは明白だ。
蒼真はやれやれと肩を落とすと、ワグマから目的地を聞き、テントを出た。




