第32話
「そうかっ! そうだったのか!」
顕微鏡を覗き込んでいた白衣を着た男が声を荒らげ、机を叩く。その衝撃を受けて、机に乗っていた顕微鏡がその身を震わせる。
白衣を着た男の名前をジャック・キャロラインと言い、この村に幾人かいる医者の一人である。
「何故もっと前に気がつかなかった! 似た症状なのは分かっていたのに!」
ジャックはそう叫び、自らを罰するように、頭を乱暴に掻き毟る。その耳は独特で、普通の人間より長く、先端が尖っている。
「そもそもこのウィルスはとっくに絶滅したはず……いや、そう思い込んでいたから発見が遅れてしまったのか」
この無能者が。そう呟き、ジャックは部屋を見渡す。
そこには老若男女問わず、多くの人々が寝込んでいる。備え付けられたベッドでは足りず、床に敷いた敷物の上に雑魚寝している者も大勢いる。その中にはジャックの妻の姿も見える。
多くの人々で溢れている部屋の空気は重苦しく、空気感染を恐れて基本的に窓を閉め切っている為、人の熱気で蒸し暑く、病人の汗や吐瀉物、果ては排泄物まであって、部屋は一言では言い表せない臭いが支配している。
数日前まではここまで酷くなかった。きちんと病人の世話をする者がいたからだ。
だが、その世話をする者が発病して、一人倒れ、また一人倒れ、終には全員倒れてしまった。
では、そんな地獄絵図はここだけなのか?
その答えは否である。
発病した者を隔離したものの、その努力は無駄に終わり、今となっては村中が程度の差はあれ、似たような状況に陥っている。
今となってはこの村で普通に動き回れる者はジャックと、まだ幼い娘だけである。
「――くっそ」
ジャックは悔しさのあまりに、唇を強く噛み締める。
「いや、原因は突き止めたんだ。それに対する治療方法も、特効薬の作り方も分かる……だが、肝心の材料がない」
その材料とは、とあるモンスターの角である。レベルはさほど高くなく、30半ば。
だが、魔法が効きづらく、魔法を得意としている種族であるジャック達とは相性が悪い。更に角をなるべく傷つけずに討伐しないといけないので、その難度が上がる。
だが、それでも、村人達で五人パーティーを二つ組めれば問題なく入手出来る。いや、安全マージンを取り除けば、一つでも組めればどうにか出来る。
だが、肝心のパーティーを組める村人がいない。
隣村に救援を頼むか? それが一番現実的だが、我々は生命力が強い種族とはいえ、果たしてそれまでこの患者たちは持つのか?
……いいや、持つわけがない。
隣村とは言え、往復で半年はかかる。
それからモンスターを討伐して、薬を作って病人に投薬……そんな事をしていれば一体、何人が犠牲になる?
いや、一体、何人が生き残れる?
……では、一人で行くべきか?
……いや、それこそ無謀というもの。それで私が死んだら誰が隣村に救援を頼みに行くのだ?
ふと、ジャックの頭の中に過る最愛の娘の姿。
……いや、あの子はまだ幼すぎる。
確かに、何度か一緒に隣村に訪れた事はあるし、近場ならば一人でお使いに問題なく行ける。
親馬鹿と思われるかもしれないがあの歳としては非常に優秀で、将来が有望なのも確かだ。
だが、今回はあまりにも無謀だ。
とても、一人で無事に隣村までたどり着けるとは思えない。
そもそも、まだ幼い子の足だ。半年どころか、一年は最低掛かってしまうだろう。
ジャックは思い浮かんだ愚かな考えを追い払おうとするように強く頭を振る。
そんな事をするよりは私自らが行った方が良い……あの子を置いていく事になり、かなり高い確率であの子も発病するだろうが、あの子を連れて行っては歩みが遅くなってしまう。遅れた結果、村が全滅という事も有り得る。
そう、私は医者として、無謀な事は選択せず、より多くの人々が助かる道を選択しなければならない。
……だが……だが……しかしっ。
ジャックは力なく、まるで幽鬼のように部屋を見回す。そして、ある一点、妻の所でその視線が止まる。
額には大粒の汗、顔は土気色、呼吸は荒く、時折生きているのを思い出したかのようにうめき声を微かに上げる。
あの様子では隣村から救援が来るまで妻が持つ可能性は低いだろう。そして、村に残すあの子も感染していないという可能性は限りなく低く、発病するのは時間の問題だろう。
そして、発病してしまえば、幼いあの子が長い間持つ訳が無い。
「っ――くっそっ!!」
ジャックは絶叫する。
まるで天上にいると言われている神を睨みつけるように、部屋の天井を仰ぎ、叫ぶ。
「くっそ! くっそ! くっそ!」
何度も、何度も天を仰ぎ、ジャックは絶叫する。
もう、何もかも投げ出して娘の小さな手を取って逃げ出してしまいたい。妻を失い、あの子まで失ったら自分は生きていける自信がない。
ジャックだって医者である前に一人の人であり、父親である。最愛の娘を守るために何もかも投げ出し、見捨ててしまいたいと思っても、誰がそれを責められるだろう。
「くっそ!」
だが、ジャックにはそれが出来ない。
医者としての誇り、責任、人としての良心。そして、何より娘と同じくらいに愛している妻の存在がジャックを踏み止まらせている。
「どうにか、どうにか出来ないかっ」
隣村に救援に向かうには時間が掛かりすぎる。ジャック一人でモンスターを討伐するのは無謀過ぎる。
ふと、ジャックの頭の中に過る、人間の冒険者という存在。
「――何を馬鹿な事を考えているんだ、私はっ! エルフとしても誇りを忘れたのか! あんな下等生物に頭を下げるなど出来る訳が無い!」
ジャック達エルフという種族はプライドが高く、自らの種族を誇っている。
逆に、他の種族、特に、エルフに比べて短命で浅慮な人間を見下しているものがほとんどだ。
そんな見下している相手に頼むという考えが一瞬でも過ぎったジャックは、激しい自己嫌悪と怒りに顔を歪める。
「村の人達もそれを良しとはしないだろう。そんな事をすれば私が恨まれてしまう。人間に頭を下げるのならエルフは誇りと共に死を選ぶ」
それは自明の理である。
だが、しかし……そんな誇りで村人を、妻を、娘を見殺しにして良いものだろうか? 今なら、私が屈辱に耐え、泥を被れば皆助かるかもしれない。
……いいや、仮に助かったとしても多くの者が人間に助けられた事を恥じて、助かった命を自ら絶つかもしれない。
……結局は二つに一つ……いいや、私が取るべき行動は一つしか残されていないのか。
ジャックは腸が煮えくり返りそうになるのをぐっと堪え、決断する。
――私一人だけで隣村に救援を頼みに行く。
そう決断した瞬間。
怒りの為か、家族を切り捨てると決めたショックからか、ジャックは激しい立ちくらみに襲われて、思わず、よろよろと椅子に腰掛けた。
すると、突然、悪寒と吐き気がジャックに襲いかかってきた。
怒り? ――いいや、違うっ。私も発病したのだっ。
自らも感染しているとは思っていた。
病原菌がウヨウヨいる部屋に引きこもっていたのだから当然だ。
ただ、もう少し発病までには猶予があると思っていた。往復は無理でも片道だけなら何とか持つだろうと考えていた。現にさっきまで発病する兆候は一切無かった。
「……だと言うのに」
ジャックは襲いかかる悪寒と吐き気に耐え、唇を噛み締めながら、無理やり椅子から立ち上がる。
……動ける。まだどうにか動ける。ならば、急ぎ準備を整えて出発しなければ。
だが、そんなジャックを嘲笑うかのように、不意に視界が真っ白に染まる。
と、同時に自らの耳に響く、ドンっという大きな音。
暫くして、徐々に晴れていく視界が映し出したのは床であった。
……私は、さっき、倒れたのか?
痛みは無かった、それどころか、倒れた衝撃すらジャックには感じられなかった。聞こえてきたのは何かが落下した音だけ。
「はっ、っは、っは、っは」
突然、床に伏したジャックが乾いた笑い声を上げる。
もうジャックには笑うしかなかった。
もうこの村はダメだ。まともに動けた私がこうなってしまっては、もうどうしようもない。もうどうにでもなれ、私は知らん。
自暴自棄になったジャックは笑う、哂う、嗤う。
壊れたように笑い続けるジャックの耳がふと、笑い声以外の音を拾った。
ジャックは酷く億劫だったが、何とか音のした方に顔を向けた。
すると、そこには最愛の娘の姿があった。
娘は部屋の惨状に顔を顰め、こみ上げた吐き気を抑えるように口元に手を遣る。そして、不快そうに首を巡らせて、床に伏したジャックと目が合う。
娘は部屋に入るのを暫く躊躇してから、倒れ伏したジャックの元へと駆け寄ってきた。
「パパっ大丈夫!?」
母親譲りの蜂蜜を垂らしたかのような金色の髪の毛を振り乱しながら、床に伏したジャックの元へとたどり着いた娘は顔を顰めて、今にも泣き出しそうである。
もっとも、それがこの部屋の臭いが原因なのか、ジャックが倒れているからかなのかは分からない。
「……ああ、大丈夫だよ」
ジャックとしては後者であって欲しいと思いながら、なけなしの力を振り絞って体を起こす。
「良かった」
すると、娘はほっと安堵したものの、未だに表情は冴えない。どうやら悲しい事に前者だったようだ。
「パパが倒れたら、村の人を、ママを助けてあげられないからね」
言って、ジャックは精一杯笑ってみせる。
「うんっ。パパならこんな病気、直ぐに治しちゃうよね」
「ああ、そうとも。現についさっき病気の原因を突き止めたんだ」
そう自慢げに言って、ジャックはエルの頭を優しく撫でる。
「本当っ!?」
「ああ、本当だとも、治し方だって分かった」
「じゃあ、皆直ぐに治るねっ」
まるで咲き乱れる花畑のような笑顔を浮かべるエル。
「ああ、パパが直ぐに治してみせるよ……だから、パパからエルにお願いがあるんだ」
その笑顔を見て、ジャックはある決断をする。それは分の悪い賭けだ。勝ち目なんて全く無い。だけど、今のジャックには勝ち目が無いと知りつつ、それにベッドするしかない。
「お願い?」
「ああ、エルにしか頼めない重要なお願いだ。パパのお願い、聞いてくれるか?」
「うんっ」
「いい返事だ」
娘の元気な返答を聞いて、ジャックは机の中から丸められた一つの紙を取り出すとエルに手渡す。
「これ、何?」
エルは渡された紙を不思議そうに眺めて首を傾げる。
「これは魔法の地図だよ。行き先は隣村になっている。エルには隣村まで行って人を呼んで来て欲しいんだ」
エルフは生まれながらに方向感覚に優れている。地図の見方もエルは知っている。迷うという事は無いだろう。
「どうして?」
エルの顔が不安に染まる。
「薬を作るのに、モンスターを狩らないといけないんだ。だけど、パパ一人じゃ無理だから、隣村の人に手伝って欲しいんだよ」
ジャックはさも何でも無いと言うように、とても簡単な事をするだけと言わんばかりに、軽く告げる。
「パパは、パパは一緒じゃないの?」
「パパは人が来るまで皆を看病しないといけないんだ。隣村まではパパと何度か行った事があるだろう? 今度はそれをエル一人でするだけだよ」
「……分かった」
渋々ながらも頷くエルを見てジャックは思う。
娘は隣村までのどれくらい掛かったか覚えていないのか、はたまたどうにかなると楽観的に考えているのか、それとも――現状を正確に理解しているのか。
根拠は無いが、ジャックは最後が正解だと思った。
「いい子だ。それじゃ、隣村の村長宛に手紙を書くから、その間に支度しなさい」
「……は~い」
不貞腐れたように部屋を出ていく娘の後ろ姿をジャックは目に焼き付ける。恐らく、自らが見る最後の娘の姿だろうから。
「……無事にたどり着いてくれよ」
可能性は低い。万に一つすらないかもしれない。
ただ、ゼロではない。
自分がこうなってしまっては娘が助かる可能性はそれしかない。
もう、奇跡に縋るしかないのだ。
ジャックは娘の無事を強く願い、紙にペンを走らせた。




