第30話
真っ暗な暗闇に身を委ねている。
真っ暗なだけでなく、音という音が一切聞こえない。この静寂を壊したくないのか、自らの呼吸音すら、ここでは聞こえてこない。
だけど、全く息苦しくなく、常に肺は何かで満たされている。
だから、聞こえてくるのは静寂という無音のみ。
ここでは自分が右を向いているのか、左を向いているのか、上を向いているのか、下を向いているのか、地面に立っているのか、宙に浮いているのか、分からない。
方向感覚どころか、手足の感覚、肌を刺激する感覚、鼻を刺激する感覚、どれもこれも無い。ここには何も無いのだ。
だけれど、ここは居心地が良い。
何も見えないから、見たくないものも見なくて済む。
何も聞こえないから、聞きたくないものも聞かなくて済む。
何も感じないから、痛みにたえなくて済む。
何も見なければ、何も聞こえなければ、何も感じなければ、何も考えないで済む。
ここは何も無いけれど、何もしなくて良い世界。
様々な自分を丸ごと包み込み、許し、見守り、受け入れてくれる世界。
だから安心出来る。
ずっとここで揺蕩っていればいずれ、自分もこの世界の一部となれる。それは何も感じないこの世界においても酷く魅力的に思える。
だけれど、そんな事は許さないとばかりに、一つの声が静寂を破壊する。
その声は、どこかで聞いたような、懐かしいような、名前を必死に連呼している。
それを聞いた瞬間。
この居心地の良い世界が、とても居心地悪くなった――いや、とても怖くなった。
だから俺はあるはずの手を必死に伸ばした。一刻も早くここから出たいと願い。
すると、暗闇に一筋の光が降り注いだ。
俺は必死に、懸命に、滑稽に、無我夢中でその光に向かって手を伸ばした。
蒼真は頭に柔らかい感触を覚えて、ゆっくりと目を覚ました。
「あっ」
すると、視界にとても可愛らしい少女が飛び込んできた。
「目が覚めましたね。良かったぁ」
目を開けた蒼真を見た可愛らしい少女は、ほっと安堵すると、太陽に眩しい笑顔を蒼真に向けた。
「……リーン?」
蒼真はその太陽な笑顔が眩しすぎると訴えるように目を細めて、可愛らしい少女の名前を呼ぶ。
「どこか、痛い所とか、違和感がある所とかは無いですか?」
すると、蒼真の訴えを聞き入れたのか、少し落としすぎる位に顔の光量を落としたリーンが問いかける。
「ん?」
言われて蒼真は自らの体に神経を集中する。痛みや違和感がある部分は見当たらない。
次は実際に触ってみて、
「んん?」
と思って腕に手を伸ばした所で蒼真は頭の柔らかい感触の正体に気が付く。
その正体はリーンの膝である。小さな膝から、これでもかと、蒼真の頭をはみ出しながらも、リーンは蒼真に膝枕をしていたのである。
「――すっ、すまん」
その正体を知った蒼真は、恥ずかしいやら、気まずいやら、申し訳ない気持ちになって、慌てて立ち上がる。
「そんな事より体のほうはどうですか?」
そんな蒼真の事など、全く気にした様子を見せずに、リーンが不安そうに再び問いかける。
「ふむ……」
言われて蒼真は体のチェックを再開する。
「どうやら問題なさそうだな」
眺め、触り、動かしてみて、蒼真は体に異常が無いことを確認すると、リーンに告げる。
「そうですか、それは良かったです」
蒼真からの返答を聞いたリーンはほっと胸を撫で下ろすと、笑顔を浮かべる。
そんなリーンの笑顔を見ながら、蒼真は何故自分が寝ていたのかを考える。
「――あっ」
そして、思い出す。一体、自分の身に何が起こったのかを。
「うっ」
と、同時に首を絞められた感覚、息苦しさもまざまざと思い出され、蒼真は顔をしかめて、軽く嘔吐く。
「ど、どうしました?」
そんな蒼真を見て、リーンが不安そうな顔を浮かべて慌てて蒼真に近づく。
蒼真は近づいてくるリーンを手だけで制して、素早く、けれども注意深く、周囲を見回す。
すると、開け放たれたドアの外、廊下で苦しそうな表情を浮かべながら、濡れた床の上で正座をしている一人の女の子が目に入る。
その女の子はカリナによく似ている、本人と言っても問題無いだろう。だが、蒼真はそれが決してカリナでは無い事を知っている。
「――っ」
自らの首を絞めた張本人を見て、蒼真は慌てて臨戦態勢に入る。
臨戦態勢に入った蒼真の気配を感じたのだろう、カリナによく似た女の子、もといラミアが、少しだけ目を見開き、しげしげと蒼真を見る。
その顔には、喜びと驚き、安堵、それらを上回る呆れ、更にそれを上回る畏怖が混ざり、何とも言えない表情が出来上がっている。
「ああ、その子なら大丈夫ですよ。今、絶賛反省中です」
蒼真を視線の先を捉えたリーンがそう言って、蒼真を安心させようとしたのか、ぎゅっと手を握って、にっこりと微笑む。
「……そうなの、か?」
リーンに言われて、蒼真は少しだけ警戒を解く。
「ええ、私が保証します」
そんな蒼真に力強く、リーンが言い放つ。
「……そう、か」
それを聞いて、蒼真はようやく警戒を解く。
リーンからの保証と自らの警戒。
どちらが安心出来るかと言えば、圧倒的に前者であろう。
「はい。それで、この子が蒼真さんに言いたいことがあるそうです」
言って、握っていた手を離すと、わざとらしくぱんっと両手を合わせて音を立て、ラミアに向かってにっこりと微笑むリーン。すると、ラミアが肩をびくっと震わせて顔を歪める。
そして、逡巡する。
「――ね?」
だが、そんな逡巡は許さないとばかりに、リーンがその笑みを色濃くする。
すると、ラミアは慌てて、
「す、すまなかった!」
そう捲し立て、ぺこりと頭を下げる。
「ん?」
そんなラミアを見た蒼真は、こいつ、唐突に一体何してんの? という顔をラミアに向ける。
「それじゃ、一体何の事か分かりませんよ?」
にこにこと、まるでその表情で固まってしまったかのような張り付いた笑顔で、リーンがラミアに告げる。ただ、その声に暖かさは一切無い。そして、何故か、その場で軽く手を上げて振り下ろしてみせる。
「っ――さっきは急に襲いかかってすまなかったっ! 二度と! もう二度と、あのような事は起こさないと約束しよう!」
すると、まるでテープの早送りのように、凄まじい速度で捲し立て、深々と頭を下げるラミア。その速さでよくセリフを噛まずに言えたと感心してしまうレベルの速さである。
そこまでされて蒼真はようやくこれが先ほどの謝罪だと理解して、『ああ』と小さく声を漏らす。
「あっれ~? まだ頭が高いような気がしますけど、私の気のせいでしょうか?」
言って、手を振り上げるリーン。
「――本当にすまなかった!」
すると、ラミアは両手を濡れた床に押し付けると、勢い良く、戸惑いも、躊躇いもなく、頭を更に深く下げ、床に頭を押し付ける。
「――ちょっ、待てっ、止めてくれ」
蒼真は暫くそんなラミアを呆然と見つめてから、慌てて捲し立てる。別人と分かってはいても、カリナの見た目でそんな事をされて、蒼真は強い罪悪感に苛まれたのだ。
「ゆ、許してくれる、のか?」
頭は上げずにそう問いかけるラミア。
「ああ、許すっ、許すから、もう止めてくれ」
顔を顰めながら、蒼真が更に捲し立てる。
「……そ、そうか……恩に着る」
言って、ほっと安堵すると、顔を上げるラミア。
だが、それから立ち上がる気配が無い。
「――ああ、もうっ、立ってくれ」
いつまでもカリナに似たラミアを正座させておくのも気が引けて、蒼真は大声で告げる。
「いや、これは、その、妾は反省中の身、蒼真の許しを得たとはいえ、勝手に止めるのは……」
消えりそうな声でそう言って、ちらりとリーンを見遣るラミア。
「良いんだよ。俺が許した事で反省も終了だ」
「いや、しかし……」
「ああ、もうっ!」
このままでは埓があかないと判断した蒼真は頭を盛大に掻くと、ラミアに向かって歩き出す。
「――そ、蒼真っ。こっちに来るでない!」
そんな蒼真を見たラミアは急に慌て出す。
「だったら、立て」
だがそんな言葉で蒼真は止まらない。むしろ、ラミアに近づく足を速める。
「いや、それは――ここは、その、少しばかり汚れておる、だからっ」
「汚れているから、何だって言うんだよ?」
必死にラミアが蒼真を近づかさないように言葉を発している内に、蒼真はラミアにすぐ近くまでたどり着き、そして眉を顰める。
「何だよ、この床濡れているじゃね~か。たっく、反省するにしても、もっと違う場所があっただろう?」
蒼真に言われてラミアは顔を赤くすると、俯く。
「ほら、立った、立った」
蒼真は濡れた床なんて全く気にせず、足を踏み入れると、俯いたラミアを抱き上げて無理やりに立たせる。
「ったく、濡れた床に頭なんて押し付けるから、顔まで濡れてるじゃね~か」
言って、蒼真はラミアの顔を上に向けさせると、着ている上着でラミアの顔を拭く。
「っ~」
すると、ラミアは頬を朱に染めて、声にならない声を上げる。
「ほら、少しは綺麗になった」
ラミアの顔を拭き終えた蒼真は、そう言って微笑む。
「っっ~~」
すると、ラミアは耳まで真っ赤にして、潤んだ目で蒼真を見つめる。
それから、暫し二人は見つめ合い、部屋に静寂が訪れる。
「……すまなかった……本当にすまなかった」
そんな静寂を壊したのはラミアの謝罪の言葉。顔は先ほどとは打って変わって、罪悪感に染まっている。
「いや、もういいって言っているだろ」
そんな謝罪の言葉に蒼真は顔を顰める。
「いや、本当にすまなかった……そして、生きてくれていて――ありがとう」
言って、蒼真の胸に顔を埋めて泣き崩れるラミア。
蒼真はそんなラミアを困ったように見つめながらも、何も言わずにラミアの背中にそっと手をやる。
すると、ラミアの泣き声が大きくなり、嗚咽が混じる。
蒼真はそんなラミアに困りつつ、何も言わずに泣き止むまで、ずっと待ち続けた。




