ありがとね
今生の生の先にある何か。
そこに、いくつかの人生を生きた魂が巻き起こすドラマ。
一緒に楽しんでいただければ幸いです。
夏の終わりの残照が、病室をピンク色に染めていた。
夏美は首を傾けてベッドの側で心配そうな顔をして座っている連れ合いの顔を見た。
少し息の荒くなった夏美の手をさすりながら、ぼそぼそと言い続けている。
「大丈夫、大丈夫だからね。」
この人は心底やさしい人なのだ。
もう50年以上一緒に暮らしてきた。
若い時は小さなことで言い合いになることもあったが、がんこに意見を曲げない夏美の性格を飲み込むと、自分から折れて物事を丸く収める技を身に着けた。
それなのに、夏美としてはそんな夫の「暖簾に腕押し」的なところにまた歯痒い思いを抱く。
何とも我儘なものだ。
しかし夏美自身も、夫がそういう人であるからこそ、なんとかここまで一緒にやってこれたのだということはよくわかっている。
なにかに執着していた心を手放し静かに目を閉じると、けだるく熱に湿った背中から頭頂部に向かって、すうっと力の抜けるような風が吹いた。
ここのところ、重くベッドに押さえつけられていた身体の、突然の浮遊感に少し驚く。
「あら、これがお迎えが来たっていうやつかしら。」
意識が、風に誘われるように身体から抜け出し、みるみるうちに病室の天井のほうに昇りつめた。
下を見ると、ハッと息をのんだ夫が悟った笑みを顔に浮かべ、ベッドに横たわる亡き骸に向かって声をかけてくれている。
「…なつみさん。お疲れさん。」
「じいじも、お疲れさん。長いこと付き合ってくれてありがとうねー。いろいろお世話になりました。」
夏美も下に向かってそう声をかけた。
「さて、これからどうなるのかしらん。ちょっとワクワクするねぇ。」
しだいに眩しい光に覆われてきて、身体がふわふわと温かいぬくもりに包まれていく。
あら?
三途の川とかお花畑とかがあるって聞いてたけど、なんだかちょっと様子が違う。
それに「お迎え」っていうぐらいだから、天使とかご先祖様とかが声でもかけてくれると思っていたけれど、それもないようだ。
夏美は、自分がふわふわの綿菓子のようなぬくもりに、だんだんと同化していくのを感じていた。
楽しんで書きました。
読後感が良いといいのですが、・・。