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外はしとしとと雨が降っていた。
眠気を誘う午後の授業。先生の流れるような英語の発音を聞きながら、私は斜め後ろの席から、吉武の背中をこっそり見つめる。
窓際に座る吉武は、頬杖をついて、窓を伝う雨を眺めていた。
休み時間はうるさいほど大声で笑っている吉武が、授業中こんな顔つきでぼんやり窓の外を見ていることを、私はずっと前から知っていた。
「吉武ー。置いてくぞー」
「いま行くー」
その日の放課後はいつもと違った。数人の男子に呼ばれた吉武が、ばたばたと教室を出て行く。私はあわてて、そんな吉武の背中を目で追う。今日の吉武は、いつも持っている紙袋を持っていなかった。
「あれ、佳耶、もう帰るの?」
「うん、ごめん。また明日!」
春奈にそう言って教室を飛び出す。どうしてだか私は、吉武のあとを追いかけていた。
傘で姿を隠すようにして、男子たちの少し後ろを歩いた。駅への道を歩きながら、吉武はみんなと一緒に笑っている。
駅のそばのコンビニに寄ったあと、彼らは駅前でかろうじて営業している、古いゲームセンターへ入って行った。
私は傘を握りしめたまま、自動ドアの前に立ち尽くす。
どうしてこんなところまで来てしまったのだろう。声をかけることもできないくせに。
――俺への好奇心か同情で、付き合ってるんだろ。
好奇心……それは確かにあるかもしれない。だけどそんな軽い言葉とはちょっと違う。
私はもっと、吉武のことを知りたい。
「あれ、浅見?」
突然声をかけられてあせった。振り向くとコンビニの袋をぶら下げた早川が、肉まんをかじりながら立っている。そういえばこいつ、まだコンビニから出てきてなかったっけ。
「何やってんだよ、こんなところで」
「べつに。ただ通りかかっただけだよ」
けれど早川は、にやにやした顔つきで私に言う。
「嘘だろ? お前、吉武のあと、つけてきたんじゃね?」
「ち、ちがうってば!」
「呼んでやるよ。おーい、吉武ー!」
早川がそう言いながら店の中へ入って行った。私はどうしたらいいのかわからなくなって、その場でうろつく。
つけてきたことがばれたらどうしよう。きっと気持ち悪い女だと思われる。吉武のこと「嫌い」なんて言ったくせに。
このまま逃げてしまおうかと背中を向けた時、私の名前を呼ぶ声がした。
「佳耶?」
ゆっくりと後ろを振り返る。私の前に吉武がひとりで立っている。
私はあの日、触れ合いそうになった唇を思い出して、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
「あ、あのっ、吉武がみんなと歩いてるのがたまたま見えて。それでめずらしいなぁって思って……」
吉武は何も言わない。怒っているのかもしれない。泣きたくなる。
「今日は……行かなくていいの?」
「病院へ」という言葉は言えなかった。そんな簡単に口にしてはいけない気がした。
小さく息を吐いてから、吉武は答える。
「もう……いいんだ」
「え?」
「もう家族のために我慢するのやめた」
「そんな……」
吉武が私を見てほんの少し笑う。
「部活も遊びもあきらめて、ずっと家族のためにやってきた。『えらいね』とか言われたけど、嫌々やってただけなんだ。なんにもえらくなんかないんだよ」
「でも……吉武がやらなきゃ、きっと困る……」
「もう、いいんだ。俺がいなくたって、なんとかなる」
吐き捨てるようにそう言った吉武が、私から顔をそむける。そしてぽつりとつぶやいた。
「だから俺は……佳耶と同じじゃないんだよ」
私は黙って吉武を見る。
「早く行ってやりなよ。弟のとこ」
背中を向けた吉武が店の中に入って行く。私は傘を握りしめ、雨の中に立っている。
しとしとと降り続く秋の雨は、まだ止みそうになかった。
その日から毎日放課後になると、吉武は男子とつるんで教室を出て行った。
ほんとうに、病院通いをやめたのだろうか。
私はひとりで教室を出て、今日も雨の中を歩く。ぱしゃりと水たまりを踏みつけながら、吉武はいまどこにいるんだろうと考えていた。
「かやちゃーん!」
保育園に着くと、弟の凌空が駆け寄ってきて、私に抱きついた。この瞬間だけは、いろいろな嫌なことも忘れられるから不思議だ。
「今日ね、これ作ったの。かやちゃんにあげるね」
凌空が紙粘土で作ったネックレスを、私の首にかけてくれた。
「わぁ、嬉しい。ありがとう」
私が言うと、凌空はぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。
雨の中、傘をさして凌空と歩く。途中のスーパーに寄って、夕食の材料を買う。
毎日同じことの繰り返し。だけど昨日より気温は下がって、季節は確実に移り変わっていく。
「雨、嫌だね」
片手でスーパーの袋を持って、片手で傘をさしているから、雨の日は凌空と手をつなげない。
「りっくんは雨すきだよ」
小さな傘をさした凌空は、長靴で水たまりを踏みつけながら言う。
「えー、なんで?」
「あおい先生が言ってた。雨が降るから虹が出るんだって。虹ってきれいなんだよ。かやちゃん知ってる?」
ああ、そうか。確かにそうだ。
「うん、知ってるよ。虹、見たいねぇ」
「うん。見たいね!」
ふたりで傘をずらして顔を上げる。いつの間にか雨は小雨になっていて、雲の隙間から薄暗くなった空が見える。
こんなふうに幼い弟と歩くのも悪くはない。言うことをきかなかったり、ぐずったり、大変なことも多いけど、この子に教えてもらうこともたくさんある。
だから……普通の女子高生とは違うけど、それを恥ずかしいと思うことはない。
雨が止んで、私と凌空は傘を閉じた。雨上がりの道を、手をつないで歩く。
空に虹は出ていなかったけれど、こうやって誰かと一緒に歩くのは、やっぱりいいなと思った。
「一緒に帰ろう」
放課後の教室で私は言った。吉武の前に立って。吉武はわけがわからないと言った顔で私を見ている。
「え、なんで?」
「なんでって……私たち、まだ付き合ってるよね?」
吉武がちょっと首をかしげる。
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「でも俺にあんなことされて……もう嫌いなんだろ? 俺のこと」
「だけど私まだ、吉武と別れるって言ってない」
そばを通った早川が、にやにやと横目で私たちを見ている。そして男子たちのところへ行って、なにやらこそこそと話している。
だけどそんなことはどうでもいい。周りの人たちなんか関係ない。
私はもう一度、吉武に向かって言った。
「吉武と一緒に行きたいところがあるの」
「……俺と行きたいところ?」
「バスに乗って行きたいの。あの坂の上まで」
吉武が顔をしかめた。私はそんな吉武の手を強引にひっぱる。
「吉武、行こう。私も一緒に行くから。嫌なこともあるけど、それだけじゃないでしょ? ずっと我慢してただけじゃないんでしょ?」
だって吉武はいつも、妹さんへ届ける荷物をすごく大事そうに持っていた。嫌々だったらもっと乱暴に扱ったっておかしくない。
それに吉武は言った。妹さんのこと、大事な家族だって。
あきらめたように立ち上がった吉武の手を引き、そのまま手をつないで廊下を歩く。
春奈が「青春してるねぇ」なんて笑っている。
靴を履き替えて外へ出た。少し早く授業の終わった今日は、まだ陽が明るい。
私はもう一度吉武の手を握る。黙ったままの吉武は、それでも私の手を振り払おうとはしなかった。




