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「佳耶、吉武と付き合い始めたって、ほんとなの?」
誰にも話していないはずなのに、あれから数日後、春奈がそう聞いてきた。
「……誰が言ったの?」
「早川が見たって。あんたたちが最近一緒に帰ってるとこ」
黙り込んだ私の前の席に座り、春奈が身を乗り出すように聞いてくる。
「やっぱり告られたんだ! 吉武に!」
「違うよ」
「え?」
「その……私が言ったの。『付き合わない?』って……吉武に」
春奈はぽかんと口を開けたあと、にやにやと顔をゆるませる。
「なによぉ、なんとも思ってないって言ったくせに。やっぱり佳耶も好きだったんだぁ、吉武のこと」
「ち、ちがうよ。ちがう」
「何が違うの? だって好きだから『付き合わない?』なんて言ったんでしょ?」
私はまた黙り込んだ。実はあの日からずっと考えていたのだ。
なんであんなこと、言っちゃったんだろうって。
吉武のこと、好きなのかどうかもわからないのに。
「佳耶」
突然名前を呼ばれて驚いた。振り返ると私の後ろに吉武が立っていた。
「帰ろう」
「う、うん」
春奈がまたにやにやしてる。遠くの席に集まっている女の子たちが、こっちを見ながら何か言ってるのがわかる。
「ほら、早く帰りなよ、佳耶」
「うん、じゃあ……」
春奈にせかされて立ち上がる。吉武が歩き出して、私はそのあとをついて行く。
「いいなぁ。青春してるねぇ」
そんなことを言っている、春奈の声が背中に聞こえた。
吉武から少し離れて廊下を歩く。
生徒たちの笑い声と、上の階から聞こえてくる吹奏楽部の音が混じり合う。
やがて吉武が、ふっと笑ったのが後ろからわかった。
「わかんないなぁ、佳耶は」
「え?」
「なんでそんなに離れて歩くの? 俺たち付き合ってるんでしょ? 俺の隣を歩きなよ」
そんなことを言われても……ここ学校の廊下だし。
「それともそんなに嫌? 俺と付き合ってること、みんなに知られるの」
「そんなんじゃない」
一歩踏み出し、吉武の隣に並ぶ。吉武は満足そうに笑うと、いきなり私の手をとってぎゅっと握りしめた。
「なっ……」
あわてる私をひっぱるようにして、吉武が歩き出す。すれ違う人たちが、そんな私たちのことを見るから、私は恥ずかしくて自分の足元をずっと見ていた。
付き合い始めた吉武慎也は、私が想像していた吉武慎也と違っていた。
昇降口で靴を履きかえると、吉武はまた私の手を握った。そしてそのまま並んで歩き出す。
吉武はこんなふうに女の子と並んで歩いたり、人前でも堂々と手をつないだりすることに、抵抗はないのだろうか。
いつの間にか私のこと、「佳耶」って下の名前で呼んでるし。
確かに「付き合わない?」なんて大胆なことを口にしたのは私のほうだ。だけどなんとなく吉武は、こんなことをする人じゃないような気がしていた。
寂れた商店街に夕陽が差し込む。私と吉武の影が、並んだまま長く伸びる。スカートを揺らす風が冷たくて、私は何かにすがるように握られた手に力をこめた。
「吉武は……」
前を見たままつぶやく。
「女の子と……付き合ったことあるの?」
しばらく黙り込んでいた吉武が、小さな声で「うん。ある」と答えた。
そうか。やっぱりあるんだ。だからきっと、こういうの慣れてるんだ。
「前の学校の子?」
「そう」
「なんで別れたの?」
「俺が引っ越しすることになったから」
「……そっか」
なんとなく聞かなければよかったと思いながら、小さく息を吐く。そんな私の耳に吉武の声が聞こえた。
「佳耶は? あるの?」
「私はないよ。弟がもっと小さい頃はもっと大変で、それどころじゃなくて……」
そこまで言って口を閉じる。吉武がじっと私のことを見ている。
駄目だ。こんなこと言ったら、不幸ぶってるみたいで感じ悪い。
「とにかく私は……吉武が、はじめて」
吉武は何も言わないまま、私からそっと視線をはずした。
広い道路に出ると、駅が見えてきた。あの交差点を、私は左へ、吉武はまっすぐ進む。
今日も吉武は紙袋を持っていた。これからバスに乗って、あの坂の上にある病院へ行くのだろう。
「もう一回聞くけど」
吉武が私の手を握ったままつぶやく。
「佳耶はどうして俺と、付き合おうなんて思ったの?」
心臓がドキンと音を立てた。目の前に見えた交差点の信号が赤に変わる。
「どうしてって……この前言った通りだよ。私と吉武は……きっと同じだと思ったから」
交差点で立ち止まった吉武が、ふっと小さく笑う。
「佳耶と俺は、同じなんかじゃないよ」
胸がぎゅっと痛んだ。吉武の手がさりげなく私から離れていく。
「どうせ佳耶もそうなんだろ? 俺への好奇心か同情で、付き合ってるんだろ?」
「ちがう……」
「俺に近寄ってくる人はみんなそう。『妹さんかわいそうね』『お兄ちゃんえらいね』ってそればっかり。俺のこと、ちゃんと知ろうともしないで」
そこで一度言葉を切ったあと、吉武が息を吐くようにつぶやく。
「前付き合ってた子もそうだった。自分より『かわいそう』なやつと付き合って、自分が幸せだって満足したいだけなんだ。お互いそれに気付いちゃったから、別れる時もあっさりしてたけど」
「で、でも……その子はその子でしょ? 私は違うから」
そうだ、私はその彼女と違う。
「じゃあ好きなの?」
「え……」
「俺のこと、好きなの?」
すぐに答えることができなかった。
信号が青になる。数人の人が私たちを歩道に残し、横断歩道を渡り始める。停まっていた車も、駅に向かって動き出す。
目の前に立つ吉武に見つめられた。何かに憑りつかれたように、私は動けない。頭がぼうっとして頬が熱くて、喉の奥がひりひりする。
吉武はそんな私を黙って見ている。そしてゆっくりと顔を近づけてきた。
目の前の信号が見えなくなる。
吉武の顔……すごく近い。熱い息が唇にかかり、やっと私は気がついた。
――私……吉武にキスされる?
「やだっ!」
思い切り手を伸ばし、その体を突き飛ばした。一瞬よろけた吉武の顔を、じっと見上げる。
吉武の向こうで、また信号が赤に変わった。何人かの通行人が交差点で立ち止まる。
恥ずかしくて、悔しくて、悲しくて……もうわけがわかんない。
「なんで嫌なんだよ」
吉武の低い声が聞こえる。
「やっぱり俺のこと、好きじゃないんだろ?」
「もう……やめてよ」
自分の声が涙声になっていることに気づく。
「もうこんな……意地悪やめてよ」
そう口にした途端、涙がぽろぽろあふれてきた。
吉武はそんな私の前で何も言わなかった。ただ夕暮れの交差点で泣いている私のことを黙って見ていた。
「こんなことする吉武は……嫌い」
私はやっぱり、吉武のことを何も知らなかったのだ。
チャイムが鳴って今日の授業が終わった。おしゃべりと笑い声が教室中に響きだす。
いつもと同じ放課後の風景。
そんな中、吉武は黙って教室を出て行く。私はそんな吉武の背中をただ見送っている。
「一緒に帰らないの?」
ちらりと教室のドアを見ながら、春奈が言う。
「吉武と喧嘩でもした?」
「……そんなんじゃない」
喧嘩の方がまだいい。言いたいこと言い合って仲直りできれば……だけど私たちは、喧嘩するほど仲も良くない。
春奈に手を振って別れて、ひとりで帰り道を歩いた。吉武とはあの日以来一緒に帰っていない。
吉武にキスされそうになった交差点で立ち止まる。少し強い風が落ち葉を撒き散らしながら、私の足元を通り過ぎていく。
なんで「やだ」なんて言ってしまったんだろう。ひんやりと冷えた指先で、自分の唇をなぞる。
なんで私は吉武の体を、自分から突き放してしまったんだろう。
信号が青になり、止まっていた人たちが歩き出した。だけど私はひとりぼっちで立ち止まったまま。
グラウンドで汗を流す生徒や、おしゃべりしながら寄り道してる生徒を、遠くからひとり眺めている時のような……私だけがみんなと違う感じ。疎外感。
それでもひとりで頑張ろうと思っていたのに。吉武に「一緒に帰らない?」と誘われた時、すごく嬉しかった。
いつもひとりで歩いている道が、ふたりで歩くと違って見えた。
また吉武と歩きたい。一緒にいたい。手をつなぎたい。吉武のことをもっと知りたい。
だけどそれは、想っているだけじゃ、伝わらないんだ。