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その日は朝から憂鬱だった。雨が降っていたからだ。
雨が降るたびに気温が下がり、冬に一歩一歩近づいていく気がして、さらに憂鬱さが増す。
けれど教室の中は、今日もあたたかく賑やかだった。
「男子、何騒いでんだろ」
お弁当箱の蓋を閉じた春奈が、教室の後ろを眺めながら言う。
確かに今日の昼休みは、いつもより教室の中が騒がしい。
私の耳に聞こえてくるのは「やっべー」とか「マジで?」とか笑いながら言っている男子の声。
だけど今日、その笑い声の中に、吉武の声は聞こえなかった。
「ねぇ、何かあったの?」
後ろの席からにやにや笑いながら戻ってきた、ひょろひょろ眼鏡の男子、早川をつかまえ私は聞いた。
「あいつら見ちゃったんだよ。吉武のロッカーの中」
「は?」
「ほら、いつも吉武が大事そうに持ってる紙袋。あの中にやっべーもんが入っててさぁ」
「なによ、やべーもんって」
春奈が早川に聞いた。私はなぜか胸の奥がぎゅうっと痛くなってきた。
「え、それは女子には言えんな」
「何もったいぶってんの? さっさと言いなよ」
春奈の声に早川が笑いながら小声でささやく。
「女物のパジャマと下着。あん中に入ってたんだって。そんなもん学校に持ってくるか? ふつー」
私は呆然と早川の顔を見た。へらへら笑っているそいつの顔を見ていたら、ものすごく怒りがこみあげてきて、気づくと弁当箱で早川の頭をごんっと殴っていた。
「いってなー、浅見! 何すんだよ!」
早川の声を無視して立ち上がる。そして驚いた顔の春奈を残し、男子が集まっている教室の後ろへ行った。
「ちょっと、あんたたち! なんで人のもの、勝手に見てるのよ!」
私の声に、男子たちが一斉に振り向く。それと同時に、クラス中の視線が私に集まった気がした。
「は? なにマジで怒ってんの? 浅見」
「ちょっとふざけてるだけだって」
「そうそう。吉武はこんなことで怒んねーし」
私は震える手でひとりの男子から紙袋をひったくると、それを吉武のロッカーに押し込んでバンッと閉めた。
誰かが「浅見、こえー」ってつぶやいたのが聞こえる。
「あんたたち、こんなことして面白いの?」
私の声に男子たちが顔を見合わせて、そしてにやけた顔つきで言った。
「たまたま間違って、山田が吉武のロッカー開けちゃったんだよ。そしたらいつも持ってるあの袋が入ってるからさぁ、ちょっと気になって」
「気になったからって、人のもの見るなんてサイテー。あんたたち吉武に謝り……」
私はそこで言葉を止めた。いや、止まってしまった。教室に入ってきた吉武が、私たちのことを不思議そうな顔つきで眺めている。
「何? 何かあったの?」
吉武がいつもみたいに笑って言った。私はどうしたらいいのかわからなくなって、ただその場に立ち尽くす。
ひとりの男子が、吉武に話した。いま起きたこと全部。何も反省していない調子で。
それを聞いた吉武は一瞬だけ顔をこわばらせたあと、すぐにいつもと同じ表情で言った。
「なんだよ。勝手に見るなよ」
そしてちらりと私の顔を見てから、みんなに言う。
「あれ、俺の双子の妹の。入院してるんだ、坂の上の大学病院に」
教室の中が、ざわっと揺れたのがわかった。
坂の上の大学病院――この町の住人が聞けば誰もがこう思う。あそこに入院しているということは、かなり重い病気なんじゃないかと。
実際隣の県やもっと遠くからも、通ったり入院している患者さんがいるって聞く。
風邪くらいしか罹ったことのない私には縁のない場所だけど、ずっと前おじいちゃんが入院していた時、一度だけお見舞いに行ったことがある。
ただ私が覚えているのは、病院が高台にあるため、病室からの景色がとてもよかったことくらい。
「うち母親がいないから、俺が毎日着替え届けてんの。だからあれ、妹の。お前ら勝手に見るなよな」
吉武が笑ってそう言ったけど、誰も笑おうとはしなかった。重い空気が教室中に漂う。
「なんか……ごめん、吉武」
ひとりの男子がそう言った。
「べつにいいよ。謝らなくても」
「俺ら、知らなかったからさ……なぁ?」
その言葉に他の男子たちもうなずく。
「うん。ふざけすぎた。悪かった」
「ごめん」
「べつにいいって」
吉武がもう一度私を見る。私は何も言えなかった。ただ両手を握りしめて、吉武の顔を見つめていた。
「毎日病院通いなんて……大変だな、お前」
誰かの声が聞こえて、吉武は私からそっと視線をそらした。
その日からなんとなく、クラスの空気が変わった。
吉武はあいかわらず楽しそうに笑っていて、周りのみんなも一緒に笑っていて、だけど前とは何かが違った。みんなどこかで吉武に遠慮しているような雰囲気があった。
誰かが吉武のことを「かわいそう」って言った。
病気の妹さんの治療のために、父親と三人でこの町に引っ越してきたことも、人づてに聞いた。
そうしたらいつも見ていた吉武の笑顔が、どこか作り物のようにも思えてきた。
冷たい風が吹く放課後。吉武が紙袋を抱えて教室を出て行く。その背中に声をかける生徒はいない。
みんな吉武に、どう接していいのかわからないのだ。吉武は、クラスのみんなと違うから。
「いくら家族のためでも、転校とか無理」
「しかも毎日病院通いだぞ?」
「俺だったら絶対放棄しちゃう」
「吉武はえらいよなぁ」
私は席を立ち、吉武の後を追うように教室を出た。
「吉武!」
靴を履き替えようとしている吉武に声をかける。
「浅見? なに?」
振り向いた吉武と目が合って、一瞬言葉を詰まらせる。
私は何を言おうとしていたのだろう。
「あのっ……帰るんだよね?」
「うん。帰るよ」
「一緒に……帰らない?」
違う。そうじゃない。もっと大事なことを伝えたかったはずのに。
だけど「一緒に帰らない?」と言ったその言葉も、決して軽い意味で口にしたわけじゃない。
偶然会ったからとか、誰でもよかったとか、そんなんじゃなくて……私は吉武と、この前みたいに並んで歩きたかったんだ。
その時私はたぶん、必死な顔をしていたと思う。そんな私を見て、吉武はちょっと不思議そうな表情をしたあと「いいよ」と言っていつものように笑った。
吉武とふたりで、駅までの道を歩いた。空は今日も赤く染まっている。
車通りの少ない国道を渡り、シャッターの閉まった商店街を進む。
ひんやりと冷えた風が吹き、歩道の隅に溜まった落ち葉が音を立てて舞う。
この前とは少し違って、吉武はあまりしゃべろうとはしなかった。
やっぱりあの日から、吉武は変だ。クラスのみんなも、そして私も。
「今日も弟のお迎え?」
吉武の声が聞こえて我に返った。ちらりと横を向くと、私のことを見ている吉武と目が合った。
「うん。そうだよ。うちの親、離婚してお父さんいないから。遅くまで働いてるお母さんの代わりに、私がお迎えに行ってるの。ご飯も私が作ってるんだよ」
さらりと言ったつもりだった。重いと思われるのは嫌だ。だけど吉武には聞いて欲しい。私もみんなと違うんだ、吉武と同じなんだってことを。
「そう」
吉武は一言つぶやいて前を見た。
夕陽がそんな吉武の横顔を照らしていて、それだけでなんだか泣きそうになった。
「ねぇ……」
私の声が少し冷えた空気に浮かぶ。
「私たち、付き合わない?」
吉武が足を止め、もう一度私を見る。
「……なんで?」
「なんでって……私たちは同じだと思うから。私だったら吉武の気持ちがわかると思うから」
そう、きっと私にしか、吉武の気持ちはわからない。
吉武は黙って私を見ている。私も吉武の顔を見る。その途端、急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。自分が誰かと付き合うなんて、想像したこともなかったのに。
だけど私の頭の中では、春奈の言った言葉が渦巻いていた。
――なんか吉武って、佳耶のこと好きみたいだよ。
「いいよ」
赤くなった顔を吉武に向ける。
吉武は穏やかに笑って、もう一度小さく「いいよ」と言った。