第八話 ジンクス
「あの馬鹿野郎―!」
俺は夜道を、愛機「エロス丸3号機」をぶっ飛ばしながら駆け抜けていた。
ちなみに「エロス丸3号機」は、単なるママチャリだ。
山陰の地方都市の、この小さな町では、自転車一台あれば十分事が足りるが、急いでいるときはちょっと不便だ。
そして、街灯が殆ど無いため、夜間は極めて危ない。
俺は今まで田んぼに二回自転車ごと落っこち、二台の愛機を失った。
何故3号機なのかはそういうことだ。
何しろもうちょっと山の方に行けば、未だに提灯持って夜道を歩いているお年寄りが居るくらいだ。
自治体は無駄な自動車道を増やす前に、もっとすることがあると思う。
「しかしあいつ、一体何をするつもりだ?」
俺は冷え切った頭をフル回転させる。
田原が言っていた「例の噂」とは、非常に他愛の無いものだ。
「自殺者が出た科目は、次の年、落ちる者が減る」という、いわばジンクスのようなものだ。
雲州大学医学部では2、3年に一人の割合で自殺者が出て、同率の割合で、退学者も出る。
確か2年程前、ウイルス学の追試の直後、アパートの自室で首を吊った学生がおり、結構長いこと発見されなかった。
おかげで見つかった時はどえらいことになっており、法医学の教授がうだうだ言っていたほどだったとか。
でもその翌年も普通に留年者はいた気がするが、詳しいことまでは知らない。
「そんな簡単にいけば、誰も苦労しないだろーがよ!」
真っ暗な田んぼの横の自動車道を、時折ハイビームをぎらつかせてかっ飛ばす対向車に引かれそうになりながら、俺は叫んだ。
遠くにあいつのおんぼろアパートが見えてくる。
三階建ての薄汚れたコンクリ壁に蔦が絡まり、築何十年だか知らないが、未だに五右衛門風呂よりも深い風呂が付いている、昭和の化石だ。
エアコンだって付いていない、てか買え。
何故そこまでけち臭いところに住んでいるのか謎だったが、よっく分かった。
親に遠慮していたんだ。
「えーっと、あいつの車は……」
そんな奴だが、バイトにどうしても必要だとか言って(何でもいいとこのカテキョだとか)、中古のカローラに乗っている。
俺たちボトムズもよくお世話になっている、優れものだ。
アパートの前の駐車場に、そのシルバーの車体がぼんやりと浮かんでいるのを確認して、俺はひとまず安心し、駐輪場に「エロス丸3号機」を止めた。
だが、何かが心に引っかかる。
「あいつの駐車場所は、もっと奥じゃなかったか?」
そう、車の位置が、今日に限ってやけに駐車場の真ん中に近いのだ。
学生の巣のようなそのアパートは、現在春休み中の為、駐車場は普段より閑散としている。
だだっ広い畑の中にぽつんと置かれた案山子のようなその姿に、俺はわけもなく胸騒ぎを覚える。
あの中に、人影が見えないか?
その時、唐突に車内に灯がともった。
たぶんライターの火だろう。
儚げな光に照らし出され、運転席に座った田原の幽鬼のようにやつれた顔が揺らめいて浮かび上がった、ような気がした。
「田原!」
俺が慌てて駆け寄ろうとすると、奴はライターを持っていない左手を振って、近付くなという仕草をした、ように見えた。
そして次の瞬間、車内が炎に包まれ、辺りが一際はじける様に明るくなった。
「ひぎいぃっ!?」
俺は声にならない悲鳴を上げ、その場にへたりこんだ。
炎は赤、オレンジ、青と移り変わり、窓の隙間から威勢よく煙が吹き出す。
田原は焦点の合わない瞳で笑っているようだった。
今思うと、何か飲んだ後だったのかもしれない。
普通の精神だったら、いくらなんでも熱くて飛び出していただろう。
なのにシートベルトをはずそうともせず、まるでサウナの椅子に腰掛けているかのような表情を浮かべている。
何一つ出来ず震えている俺を尻目に、カローラは今や一個の炉となり、火の舌は車外まで漏れ出してきた。
煙は黒雲のように湧き上がり、耐え難い臭気が鼻を焦がす。
耐えられなくなった俺は、盛大にむせ込み、やや正気に返った。
「そうだ、消火器を!」
アパートの中になら、ひょっとしたら置いてあるかもしれない。
俺はアパートの入り口めがけて駆け込んだ。
先程も言ったが、住民の殆どは帰省しており、しかも田んぼの真ん中に一軒だけぽつんと立っている立地条件のため、近所なんてものは存在しなく、近くに神社があるだけだ。
だから野次馬の気配すらなかったが、とにかく俺はアパートの呼び鈴を押しまくった。
しかし案の定、何の反応もなく、消防車のサイレンすら聞こえなかった……って、消防車!?
「そうだ、何で今まで気付かなかったんだ!?」
俺は自分の頭を拳で叩くと、携帯電話をポケットから取り出した。
確か最近の携帯は優秀で、自分から居場所を言わなくても、GPSだかなんだかで、勝手にあちらで把握して、すぐ来てくれるのだとか。
急げ!
「えーっと、110だか119だか……」
焦って手先がすべりまくり、たった三つのボタンすら押さないうちに、駐車場の方角で、鼓膜をつんざくような大音響が響いた。
「な、何だ!?」
慌てて入り口に逆走した俺が見たものは、車体中から炎を吹き上げ、燃え上がるカローラの骨組みだけとなった最後の姿だった。
ガソリンに引火したのだ。
こうなってはもうどうしようもない。
「田原……」
俺は携帯を取り落としたのも気付かず、呆然と突っ立っていた。
今こそ分かった。
彼は建物に延焼するのを防ぐため、駐車場の真ん中で、この季節外れのバーベキューを敢行したのだ。
せめてもの周囲への気遣いだったに違いない。
爆発炎上する車体は、最早物体の姿を留めず、煉獄のような火炎は、吹きすさぶ寒風に煽られ、夜空へ伸び上がり、虚空へと消えていく。
一種幻想的な光景の中で、俺は昨年彼と雀卓を囲んだときのことを思い浮かべていた。