第七十九話 九泉の泉
「ここか……」
来た時の数倍の苦労を経て、俺はようやくあの巨大な円筒の吹き抜けの真下に辿り付いた。
この場所を通ったのはつい数時間前だったと思うが、同時に、あれから何日も経っているような気もした。
下から見上げると、二つの螺旋が蛇のように絡み合いながら、天を摩するかのように聳え立ち、虚空へと消えてゆく。
再び回転性眩暈が生じそうになったため、俺は慌てて視線を床に向けた。
青々と光り輝く奇妙な泉が、円形の姿を床と同じ高さに横たえている。
あの職員が言うところの、九泉の泉なのだろう。
地獄に疎い俺にはよく分からないが、あまり近寄らない方がよいとは思われた。
例え尿意があったとしても、決してここではしないだろう。変な病気になりそうだ。
そしてホールを突っ切ると、目指す反対側の螺旋階段を一気に目指す。
どう見てもここが脱出口だ。
あれだけ固く禁止すると言うことは、「行け」と言っているようなもんだ。
このダチョウ倶楽部理論に則り、俺は元陸上部の意地を張って、十何年ぶりかに全力疾走した。
意外と誰も邪魔せず、すんなり階段の上り口に辿りつく。
だが、俺が一段目に足を掛けるな否や、右手に持った紙が一瞬眩い輝きを放ち、それと同時にホール中にジャーンジャーンという、何かの打楽器の音が鳴り響いた。
ていうかどう聞いても銅鑼の音だ。
ここは古代中国の戦場ですか?
「えーい、ままよ!」
宮崎アニメの主人公の如く、そのまま一目散に階段を駆け上がる。
どこまでもどこまでも流れすぎる手摺の向こうに、光り輝く泉が見下ろせ、次第に小さくなっていく。
だが、階段に沿って大空洞を何周目かしたとき、なんと泉の中から、先程の髭の老職員と、顔の長い赤毛の付き人が忽然と出現し、さすがに驚いて、俺は一瞬歩を止めた。
「愚かな男よ、この冥界の試験監督から、逃れられると思うてか!」
髭の老人は、大音声で呼ばわると、手にした杖を放り投げた。
たちまち杖は、龍が纏わりつく、長刀に似た、幅広の長大な剣へと姿を変え、今や老人ではなく、古代中国の甲冑を纏った、大柄な髭の男の手に、あつらえた様にぴたりと収まる。
その男の顔面は朱を塗りたくったように真っ赤で、見事な隈取が施され、京劇の役者のようだった。
赤毛の男はどうなったかと視線を移すと、最早そこには人間の姿は欠片もなく、隣の男と同じ赤い肌を持つ、いわゆる一頭の汗血馬がいななき、蹄を打ち鳴らしていた。
たとえ「三国志」に精通していないものでも知っている、天下一の名将・関羽雲長と、一日に千里を行く伝説の名馬・赤兎馬の黄金コンビだ。
「なっ……!」
愕然とする俺を尻目に、さっそうと愛馬に跨った神将は、なんとそのままガンガンと階段を駆け上がってくる。
蹄が段を打ち付けるたびに、薄暗がりに火花が散り、地獄に赤い花が咲いたような幽玄の美を匂わせる。
俺は昔、死にたくなったときに何度も声に出して音読した、「トミノの地獄」を思い出した。死ななかったけど。
「くっ、こんなところで捕まるわけには行かないんだ! 俺には……大事な人がいる!」
そう、さっきから思い出そうとして、喉に刺さった魚の骨のように取り出せないが、命よりも大事な人が、現在俺には確かにいたはずだ。
そのためにも、神であろうと悪魔であろうと、邪魔するものは悉く退けるしか術はない!
まさに、自分の道を自分で切り開く時!
俺は迫り来る馬の蹄の音も気にせず、再び階段に向かった。
目的地である、階段の終点の扉までは、後少しだ。
心臓は先程から息をするのも忘れるほど痛くて、顎が上がりっぱなしだが、休むわけにはいかない。
「なあに、赤兎馬だろうが魔王だろうが、しょせんどちらも芋焼酎じゃねぇか!」
よく分からん威勢を張りながら、よろめくように一段一段を踏みしめる。
もう走ることは出来なかったが、たとえ神馬であろうとも、ここまで来れば、追いつかれる心配はない。
俺は余裕を持って最後の踊り場を踏みしめると、ドアノブに手を触れた。
「……開かない」
なるべく考えないようにしていたが、半ば予想していたことではあった。
溶接されたかのように、ドアは1ミリも動かない。
人馬一体となった敵は刻一刻と迫っている。
万事休すか……。
「考えろ、考えろ、考えろ……」
俺は、恐怖に耐えつつ、脳汁がこぼれ出そうなほど、頭を捻った。
次回最終回です!乞うご期待!




