第七十七話 闇の試験会場 その3
「どう、思い出した?」
「ああ……」
神社の灯篭のように、暗闇に連なるオレンジ色の明かりの群れを眺めながら、俺は呻いた。
俺は、何故少女にもう会えないのに、と思ったのかの理由をはっきりと理解した。
全てを思い出した俺は、早百合の声のする光を凝視した。
今度こそはっきりと見えた。
まばゆい光の中に映っていたものは、無数のネズミに噛り付かれて全身から血を流す、あどけない少女の姿だった。
「早百合ちゃん!」
絶叫する俺に対し、彼女は朱に染まった顔に笑みを浮かべた。
「また会えてよかった。こんな姿だけど、でももう一回会いたかった。
ちゃんとあの時のお礼を言えてなかったもの。
こんな私に一年近くも付き合ってくれて、本当にありがとう」
「そんな……お礼だなんて……俺の方こそ、いろいろ教えてもらって……」
彼女はもう既に亡くなっていると、頭では理解しているのだが、非現実的なシチュエーションのせいか、それとも単に懐かしさのためか、いつの間にか俺は普通に彼女に答えていた。
「そして、無事お医者さんになれたお祝いも言いたかったの。おめでとう」
「いやいや、でも、なんでそんなこと知ってるの?」
「だから、周りをよく見なさい」
俺は彼女の言うとおり、再び周囲の暗がりに目を凝らした。
無数に揺らめくぼんぼりの様な明かりから、様々な話し声が聞こえる。例えば……。
「錦織、俺の原稿、母ちゃんに頼んで図書館に寄贈してくれたって?
そんなに気を遣わなくてもよかったのに。ありがとよ!」
燃え上がる炎のような明かりのなかに、炭化していく男の姿があった。
「よう、元気にやってるか? 約束通り、また会えたな。
お前から没収したエログッズを返してなかったのが心残りだったが、ま、許してくれ」
炎上している巨大ネズミに噛まれながら、片方の乳房のない女性の影がダミ声でがなりつつも手を振る。
「しかしよく君如きが医者になれたものですね。
日本の医療の先行きが心配です。といっても、君に先があればの話ですが……」
やはりこちらも炎に包まれている、背の高いひょろっとした男が、偉そうにふんぞり返っている。
そして……。
「そうか、お前もついにこちら側に来たか。
ここの試験は私の作ったもの以上に難問だぞ。気合を入れろよ」
重低音のバスが、縄で宙からぶら下がった男の声帯から、どういう原理かわからないが発せられる。
「田原、蛇池教授、明星、そして……夜見教授!」
俺は、恐怖と絶望と懐かしさと悲しさと暖かさと楽しさという、様々な相反する感情の渦に巻き込まれ、ただただ皆の名前を叫んだ。
そしてまた一つ思い出す。
そうだ、夜見教授は、あの壮絶な面会のあった日の夜、官舎で首を括って自ら命を絶ったのだった。
それを皆に伝える井岡教授が、さすがに複雑極まる表情をしていたのを思い出す。
そして奇跡が起こった。
ウイルス学はその年、初めて全員合格となったのだ。
「何故先生はあの時……俺のせいなんですか!?」
ずっとずっと聞きたかったことを、俺は縄にぶら下がって揺れる、やや青味がかった光に対しぶちまける。
「別にお前のせいではないさ。
蛇池のやったことは、私にも責任があったからだ。
暴走を止めることが出来ず、しかも二人とも死なせてしまった。
遅かれ早かれこうなっていただろう。
お前の訪問は単なるきっかけにすぎん」
「それってやっぱり俺のせいじゃないですか!」
「ま、そうともいうな。しかし、そんなことよりお前は自分の心配をしろ。ここは試験会場だ」
「えっ!?」
そう指摘されて、俺は机の上に向き直った。
相変わらず、染み一つない白紙が、鉛筆の下に敷かれている。
そうだ、これをなんとかせねばならない。だが、どうやって?
「結局ここはなんなんだよー!?」
頭を掻き毟って考えるも、たった一つの答えしか出てこない。
だが、とても認めたくなかった。
これは夢だ。そうに違いない。
「まだ分からないの? あなたは死んだのよ」
希望を打ち砕く台詞が、容赦なく後ろから俺を貫く。
いつも思うが、真実の言葉は剣よりも痛い。
「あなたはこの会場に入る前、どんなところを通ってきたの?」
「どんなって、天井に魚が泳ぐ廊下を通り、男の彫像……あっ、『考える人』の飾ってあるドアを潜って、螺旋階段を下まで降りてきただけだけど……」
「やっぱりね」
師匠の嘆息が聞こえる。
「あなたは、三途の川を渡り、地獄の門-『考える人』は、地獄の門の上に飾られているのよ-を潜り、地獄の底へと続く階段を降りてきたの。
この試験会場の名はコキュートス。地獄の最下層よ」
「えっ……」
墓場のような目の前の風景が、ぐわんぐわんと音を立てて揺れる。
死者の囁きが、心胆寒からしめる冷風となり、俺の胸のあたりを吹き抜けて行く。
俺はどうしてこんなところにいるのだろう。
あの幻想的な渡り廊下の前はどこにいた?
頭に靄がかかったように記憶が途切れ、そこから先に進めなかった。