第七十五話 遺品
これは賭けだった。
俺が何故、脅しの種となる貴重なブツを、脳天に叩き付けたにせよ、先輩にすぐ返してやったのかというと、こんな小細工を仕込んでいたからだった。
俺は、何も漫喫で遊んでばかりいたわけではない。
アイコラでスキルアップした画像編集テクをフル活用し、あたかも捏造を加えたかのような変更を、様々な箇所に施しておいたのだ。
そう、論文の捏造こそは、平の医局員が造反を起こし、教授の首を取る方法の一つである。
教授というのは最高責任者でもあるため、自分がまったく見ていないような医局員の論文にすら、自動的に名を連ねなければならない。
そしてもし、その論文のデータが捏造であったりした場合には、詰め腹を切らされるのは医局員だけではなく、最高責任者の教授も一緒にである。
現在日本中の、いや、世界中の大学のいたるところで論文の捏造が問題となっており、責任を取らされ辞める教授も少なくない。
そして、捏造が発覚するのは、外部からの指摘による場合ももちろん多いが、なんと内部告発による場合も多々あるのだ。
教授とは、それほど皆から辞めてもらいたい職業なのでもある。
医局で絶対的権力を握り、他の職員の人事権を操り、しかも定年の65歳まで延々と君臨する。
その治世が平和なものであれば良いが、一度暴君が治めた場合、民衆であるところの医局員の不満は高まり、基礎医学の教授であれば学生の怨嗟の声は天にも届き、人々は王の死を願うであろう。
更にその座を虎視眈々と狙うやからも多い。権力闘争の座に着くには、自分が年をとる前に、早く王に退位していただかねばならない。
このように、教授とは絶対権力者であるが故に孤独で、敵の多い、実は哀れな存在でもあるのだ。
その椅子を守るためには一つのミスも許されない。
「やってくれたな、貴様……」
教授の瞳に殺意が宿り、俺はおしっこをちびりそうになった。
しかし、最早彼にもどうすることも出来ない。
論文は既に天下にあまねく広まり、回収することなど不可能だ。
俺はこの時を待っていた。
これこそが、魔王を滅ぼす最強最大の伝説の剣だ。
俺が指摘しなければ、きっと誰も気付かぬ修正だろう。
だから、この武器は俺にしか振るえない。
「俺って交流関係が変なところに広くって、マスコミ関係者にも昔のダチがいるんですよ。
やつは、面白いニュースが医学部で無いかっていつも電話してきましてね」
完全なるはったりだ。
だが、そもそも俺ははったりや勘ばかりでやってきたようなところもある。
これだって立派な俺のやり方だ。
正攻法で力を尽くしても駄目なのなら、違う道を行くしかない。
万が一のために保険をかけておいただけだが、やつがあくまでやる気なら、俺も命を取るつもりで相手をするしかない。
人生のレールは俺が敷く。
「……」
戦場と化した室内で、俺と教授は千日将棋のように睨み合う。
両者相譲らず、このまま永遠の時が流れるかに思われた。
俺にはもう後が無く、彼にも無い。
刺し違える覚悟で魔王の城に乗り込んだ屁垂れ勇者様だったが、こうなっては、運命にゆだねるより他はなくなった。
だが、俺は絶対に引く気はなかった。
なぜなら、共に魔王を倒し、世界の果てまで一緒に旅をすると誓った女剣士がいるから。
「その魔法のカバン、後は何が入っている? さっきちらっと本が見えたが」
「へ?」
急に魔王が睨めっこを一時中止すると、奇妙なことを聞いてくる。
俺も、何が何だか分からず、間抜けな返事をしてしまった。
しまった、来るとき買ったばかりの「快楽天」が見つかっちゃったかしら。
でも、あれはローソンの袋を二重にしてもらって、奥深くに入れたつもりだったが……。
馬鹿なことを回想しつつも中を覗くと、「知の技法」が頭をのぞかせていた。
以前早百合ちゃんに借りた奴だ。
あの後ちょくちょく読んでいたが、そのままカバンにしまってあったらしい。道理で重いと思ったよ。
「それは、以前私が、面会のときに娘にプレゼントしてやったものでな。
親馬鹿かもしれんが、賢いあの娘に、私と同じ大学に入って欲しかったのだ。
高校も碌に行かなかったというのにな……」
教授が、独り言のように小さな声で呟く。
俺たち二人の間に、今日の雪のように白いワンピースを纏った少女の幻覚が、一瞬現れたような錯覚を覚え、俺は眼を擦った。
「……差し上げます。どうぞ」
人生に疲れた老人のようなしゃがれ声を出すと、俺は彼女の遺品をソファーの前のテーブルにそっと置いた。
緊張の糸が切れ、疲れ果てていた。もう何もかもどうでもよかった。
なんだかしんみりと泣きたかった。
「……そうか」
教授も同じように、全身から立ち上っていたオーラーが消えうせており、ただの初老の男にしか見えなかった。
俺は悟った。
会見は終わった。
魔王と勇者は刺し違え、世界には仮初の平和が戻った。
「では、これで失礼します」
俺は言うことをきかない足を奮い立たせると、心の中で「どっこいしょ」と唱えて立ち上がり、カバンを肩に掛け、ドアへと向かった。
「……ありがとう」
背後から、そんな声が聞こえた気もしたが、ただの風の音だったのかもしれない。
教室の重い扉の外は吹雪となっていた。