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第七十二話 恋愛小説

「まだお話したいことがあります」


 十分に胆力を練った俺は、おもむろに、以前聡子にプレゼントして、「子供っぽい」と断られた、猫の顔の形をした縮緬細工の財布をコートのポケットから取り出すと、くしゃくしゃの万札を二枚取り出した。


 本人の意思と同様に太い教授の眉がぴくりと動き、仮面のような顔貌は更なる厳しさを増す。


「何の真似だ」


 山吹色のお菓子でございますお代官様、などという気は毛頭ない。


 俺は更に、カバンから白黒の香典袋を二つ取り出し、口上を述べた。


「少し遅れて大変申し訳ありませんが、御霊前にお納め下さい、元奥様と、娘さんの」


 その瞬間、それこそまさに刹那の時間だったが、教授の堅牢な顔面に、驚愕の表情がありありと浮かんだのを、俺は見逃さなかった。


 彼は震える手先を隠そうともせず、香典袋を掴んだ。



「……知っていたのか」


 押し殺してはいるが、声にも動揺が現れている。


 俺の必殺の右ストレートは、見事にボディに決まったようだ。


「先生の言うところの、根性の無い男が、死後に俺に教えてくれたんです」


 俺はここぞとばかりに声音を改めドスをきかせると、先程のカバンから、一冊の薄い冊子を取り出した。


 チームボトムズ出版の「戦慄の前立腺」だ。


 執筆人の一人、タハーラ氏の寄稿した小説を提示する。


 そこには他愛の無い物語が書かれていた。


 とある有名大学医学部の男子学生が、恩師の一人娘の家庭教師を頼まれ、がさつだが、聡明で、行動力に満ち溢れている少女に次第に魅了され、結ばれるまでの恋愛小説だ。


 二人の年齢差は十歳近くもあったが、彼に憧れ医師の道を志した少女はやがて成長し、彼とは違う大学ではあるが医学部に入学し、幾多の障害を乗り越え、ついに彼と再び巡りあって結婚する。


 だが、エピローグは、「やがて二人の間には賢く美しい娘が生まれるが、この娘が原因で二人は別れる運命にある事など、今は誰も知らなかった」という不吉な一文で締めくくられている。


 最初俺は、どうしてこんなよく分からんENDにするのか検討もつかず、イタコに口寄せしてもらって死人に文句を言いたかったくらいだが、隅に小さく「これはノンフィクションです」とこっそり記載してあるのに気付き、電気ショックを受けたように心臓が跳ね上がった。


 これは、俺たち生者に当てた何らかのメッセージだ。


 そして、やつが俺たちに伝えたいことがあるとしたら、ウイルス学のことしかないだろう。


 そうと決め打ちした俺は、勉強の傍らで、この下手な小説の主人公が夜見であると仮定して、裏付け調査を行い、ついに、以前東大理3の寄生虫学教室に、蛇池という男性の講師がいたことを突き止めた。


 蛇池教授は、その講師の娘だったのだ。


 田原は、夜見の身辺を調べることで、なんらかの弱点なり攻略法なりを掴もうとしていたのだ。


 さすが腐っても我らがボトムズの元リーダー。


 俺とは異なるアプローチだったが、彼もウイルス攻略に対していろいろと策を練っていたのだ。


 普通に勉強しろよ、とも突っ込みたくなるが、それは今の俺だからこそ言えることで、学生というのは裏道ばかり探したくなるものなのだ。


「先生が、何故俺たち学生を蛇蝎の如く忌み嫌っているのか、何故東大の研究室を去って、地の果てのような山陰に来られたのか、また、何故早百合ちゃんが、若干15歳にしてあれほどウイルス学の知識を持ち、俺に的確に指導できたのか、ようやく得心が行きましたよ。


 娘さんの治療の一件で医者をまったく信用出来なくなった先生は、医学生に対しても同様の憎しみを覚え、厳しく当たるようになり、そしてこの地に住んでいる元奥様と娘さんの近くに居たくて雲州大学に赴任されたんですね。


 いや、元奥様のためよりも、娘さんのためを思ってのような気もしますが」


 俺はあえて感情を交えず業務連絡のように淡々と語りながら、教授会での夜見教授と蛇池教授との丁々発止のバトルに関しての様々な逸話を思い浮かべた。


 あれは、いわゆる夫婦喧嘩の延長に過ぎなかったのだ。


 更に、田原の葬式で、「そもそも、彼よりももっと辛い思いをしている人間は沢山いる」という、忘れたくても忘れられない夜見の言葉も正確に脳内再生した。


「もっと辛い思いをしている人間」とは、具体的には誰を指すのか? 


 永遠の少女時代を過ごし、世界から取り残された、彼の愛する一人娘のことではないのか?


「意外と洞察力豊かだな、感心したぞ」


 教授は同人誌から顔を上げると、どこか遠くを眺める目をした。


 表情の険が何時の間にか取れ、優しげな父親のそれになっていた。


 冬の間に訪れる、短い小春日の如く、つかの間の奇跡に過ぎないのだろうが。


「全てお前の想像通りだ。


 別に否定はせん。


 もっともあの女とは、私がこの大学に来たとき、人前で、元夫婦だと気付かれるような真似は一切しないようにしようと話し合って決めていた。


 あえて他人に告げることも無かった。


 教授という職業は何かと面倒で、プライベートにまで文句を言い、失脚させようとするやからが陰に潜んでおるのでな」


 俺ではない誰かに語りかけるような、静かな口振りだった。


 その相手は、俺にはもちろん良くわかった。


 既にこの世にはいない人だと。


「それと、学生たちを落とすのは、お前が言った理由もあるが、そもそも理3の試験はこんなものではないぞ。


 私は学生時代、自分たちが必死に勉強している傍らで、他の学部のやつらが優雅にキャンパスライフとやらを満喫している姿が許せなかった。


 ここの学生たちも、私に言わせれば似たようなものだ。


 そんなことでまともな医者になれるわけが無かろう。


 よってこれは当然の処置だ」


「へぇ、先生でも、そんなことを考えられるんですね」


 エリート街道一直線で、血も涙も無い鬼教授にも、普通の人間並みの悋気が潜んでいたとは知らなかった。


 難攻不落の鋼の鎧を脱いだ素の姿は、意外と俺に近いのかもしれない。


 無限に挫折し、世をすね、人を憎み、ひねこびた魂となった一学生に。


「だがこの香典とやらは受け取れん。


 もはや私とは何の縁もない、他人のことだからな」


 再び鉄仮面の相貌と化した魔王が、冷たく言い放つ。


 俺は口元を僅かに吊り上げ、薄い笑いを浮かべた。


 勝負はまだまだこれからだ。

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