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第六十九話 別れ

「さーちゃーんっ!」


「お、お嬢様!?」


 部屋の入り口付近の教授と明星が慌てふためく中、外では無常にも無数のネズミが早百合に飛び掛っていった。


「早く駆除機のスイッチを入れろ!」


 俺が怒鳴ると、我に返った二人は、フリーズして強制終了後に再起動したパソコンのように正常な動きを取り戻し、手元のペンダントのスイッチを入れると、廊下に飛び出していった。


 俺と聡子もその後に続く。


 電気の灯っていない廊下は薄暗く、よく見えなかったが、何か大勢の動物が駆け去っていく物音だけが響き、次第に遠ざかっていった。


「さーちゃん、さーちゃん、しっかりしろ!」


 蛇池教授は狂ったように我が子を抱きかかえていた。


 少女は一瞬のうちに見るも無残な姿になり、どこを見ても血に染まっていない箇所は無い有様だった。


「お母さん、もう、止めて……」


 ヒューヒューという呼吸音に混じり、途切れ途切れに小さな口元から言葉が漏れる。


「さーちゃん、喋るな! わかった、わかったから!」


 教授は叫びながら、娘の首筋を素手で押さえていた。


 しかし泉のように溢れ出る赤い河の流れをせき止めることは、到底出来そうに無い。


「は、早く救急車を……いや、それより隣の大学の附属病院にとっとと運んだ方が……」


 傍らでおろおろになっている明星を突き飛ばし、俺は少女の耳元で、大きく叫んだ。


「早百合ちゃん、なんだってこんな馬鹿な真似を!?」


「……あら、分からない……?」


 いつも通りの皮肉な口振りだが、もう息をするのも苦しそうだ。


 助からない。


 俺は直感的に悟った。


「あなた、の、た、め、よ……」


 そのまま、螺子が切れたように、彼女は口を紡ぐと、何も喋らなくなった。



「……」


 蛇池教授は、首を軽く横に振ったのみで、首筋の手を動かすことも無く、その場に座り込んだままだった。


 長い長い時間が過ぎたような気がしたが、ほんの数十秒だったかもしれない。


 そこにいる全員が、少女の魂が、既にこの世界の何処にも存在しないことを悟っていた。


 何しろ医師免許を持った母親が、一番良く理解しているのだから。


 ついに、教授がぼそっと何かを呟くと、血塗れの物言わぬ我が子を抱きかかえ、すっくと立ち上がった。


「明星、ついて来い」


「かしこまりました、教授」


「ど、どこへ行くつもりだ!?」


 俺が問いかけると、明星が俺と聡子に、いきなりズボンのポケットから取り出したスプレーをぶっ掛けた。


「うわ、な、なにをする!?」


「このきつい臭いは……ハッカ?」


「ネズミ避けのスプレーです。本来人間に対して使うものではありませんが、これならしばらくはネズミたちも近寄ってこないはずです」


「どういうことだ!?」


「まだ分からないのですか、この腐れおっぱい頭君。


 教授は、お嬢様に免じて、あなた方を逃がして差し上げるといっているのですよ。


 とっととトンズラぶっこいて、家に帰って寝てください」


「そんな……教授とあなたはどうするの? それにさーちゃんは……」


「いいですか、もう一回しか言いませんよ。


 とっととトンズラぶっこいて、家に帰って風呂入って歯磨いて糞して寝てください。


 小生たちは駆除機のスイッチを先程また切りました。


 すぐに、ここにあのレギオンが訪れるでしょう」


「ほら、餞別をくれてやる。今思えば、お前たちには本当に世話になったしな」


 白衣を真っ赤にして、娘の骸を抱きしめた教授が、足先でこちらに何かを蹴り飛ばしてくる。


 聡子がうまくキャッチしたそれは、紛れもなく茶色い薬瓶だった。


「お前たちは、マウスと私と明星ぐらいしか話し相手のいなかったさーちゃんの心にするっと溶け込み、良き友達になってくれた。


 お前にマウスの世話をレクチャーしたり、勉強を教えることで、あいつも人間的に成長し、よい刺激になっていたんだ。


 人の輪に入り、生きていくということはどういうことかを、お前たちは身をもって教えてくれた。


 不甲斐ない母親として、言葉に出来ないくらい感謝している。


 これは嘘偽りない真実の気持ちだ。


 だから、先程すぐその場で殺すのをためらったんだよ。


 さっきは本当にすまなかった」


「教授……」


 俺は言葉に詰まった。


 何かを伝えたいのだが、何も口から出てこない。


 再び、百鬼夜行もかくやという魑魅魍魎の軍団が迫り来る足音がする。


 ゴミ捨て場の腐臭にも似た独特の臭いも。


「逃げろったって、さっきのスプレーがあれば、襲われないから大丈夫じゃないか!」


「ええい面倒ですね、このボケナスどもは」


 何かが身体に突き刺さったかと思うと、暗闇の中、光が炸裂した。


 俺の全身が凄まじい衝撃で痺れ、指一本動かせなくなる。


 立っていることができずに、俺は廊下に崩れ落ちた。


 同時に、隣でも、誰かが倒れる音がする。聡子だ。


「これだけ危ない橋を渡っていると、いろんなアイテムを常備しているのですよ。


 スタンガンを喰らったのは初めてですか?」


「ぐ……ががが……」


「明星、早く彼らを階段まで引っ張っていけ。あそこまで行けば、大丈夫だろう」


「二人引きずるのは重いんですが、分かりました。そこの台車で運びましょう」


「おーい、アルコールランプってこの部屋に無かったか?」


「さぁ、それくらい自分で探してください。まったく最後まで人使いが荒いんだから……」


 俺に何度も「シャケ」を運搬するのに使われた台車に、俺自身と聡子を手際よく乗せながら、さすがに疲れ果てた明星がぶつくさ文句を言う。


「じゃあな、この半年間、お前と馬鹿話が出来て、結構楽しかったよ。あの世で会ったら、またよろしくな」


「では行きますよ、皆さん」


 そんな二人の声を子守唄のように聞きながら、揺れる台車のリズムのせいか、俺の意識は、深い闇の中に溶け込んでいった。

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