第六十八話 畜生道
「私が何故、時間をかけて懇切丁寧に解説してやったと思っていたんだ?
ボランティア精神か?
冥土の土産とやらにお話しする悪の帝王気取りに見えたか?
かわいいペットたちの到着を待っていたんだよ」
教授の台詞を裏付けるように、部屋の外の薄暗がりの中で、大量の生物の蠢く気配がする。
姿こそ見えないが、だから余計に恐怖を煽る。
時々緑色に光るものが視界を横切るが、あれはひょっとして……。
「私はここに来た時から、お前たちの様子を影ながら窺っていた。
明星のネズミ駆除機のスイッチが切られたことを知り、自分のスイッチも切った。
そして時間稼ぎをしたってわけさ。
こいつらは私と明星の命令には従順でな、たとえ私の体内にやつらの大好物があろうとも、私を襲うことだけは、命令されない限り絶対にしない。
だからこの入り口に私が居る限りは、お前たちは襲われたりすることはないだろう。
だが、私が命令を下し、ここを離れた瞬間、どうなるかな?」
教授は涼しい顔で恐るべき悪魔の所業を語った。
「そんなことをすれば、さーちゃんまで食べられちゃうじゃないの!?」
今まで発言がなかった聡子が、耐え切れずに口を開く。
「その点はちゃんと考慮してある。
ネズミから身を守るためには、この機械以外にもいろいろ方法があるんだよ、お嬢さん。
さぁ、選べ。私たちのカルマを知った上で、さーちゃんの治療に協力するのか、この場で生きたまま喰われ骨と化すか!」
教授の声が一段と強まり、周囲の闇が一層濃くなる。
俺は、なんとかこの場を乗り切る方法はないかと、無い知恵を絞るも、もはや何一つ思いつかなかった。
得意そうに探偵ごっこをしている場合ではなく、自分たちの身の安全を最優先に考えるべきだった。
まったく、情けないったらありゃしない。
「別にただで協力しろとは言わんぞ。
今後もウイルス学相手に戦ってやるし、ネオ・マンソン裂頭条虫の駆虫薬もくれてやる。
錦織、そこのステディを治療したいのだろう?」
教授は右手を挙げたまま、左手でもって器用に白衣のポケットから茶色い薬瓶の頭をちらつかせた。
「それって、私がカプセルを飲んでしばらくした後に飲んでいる……!」
少し泣き止んだ早百合が、息を詰まらせる。
「そうだ、お前の体内に寄生虫が溜まりすぎるのはよくないため、定期的に駆除していたんだ。
私の場合は実験のし過ぎでもう飲んでも無駄だが、雪嵐の場合はまだなんとかなる。
どうだ、悪い取引きじゃないだろう?」
本当に駆け引きのうまい人だ。
飴と鞭でこちらを丸め込もうとしているのは見え見えだが、心が傾いてしまうのはどうにも止められない。
だが……だが、世の中、理では割り切れないものがある。
俺は今まで、自分の選択ミスや、努力不足や、優柔不断さから生じた悲劇を、いつまでもうじうじと悔やんできた。
死のうと思ったことも何回もあった。
今は聡子との仲も回復して、希死念慮の症状は収まっているが、体内の爆弾を完全に除去することは出来ない。
どうせいつか死ぬなら、これ以上後悔したくない生き方が良かった。
そして、人生のレールを敷くのは誰でもない、この俺だ!
「だからってあんたのやったことは人間の範疇を越えている!
夜見の野郎は、まだ自分から人を殺すようなことはしなかったが、あんたの場合は、やってはいけない領域にまで踏み込んで、俺と同じ留年生を殺したりしてきた。
それに貧乳を巨乳と偽ることなど、神が許しても、この童貞保存会会長にしておっぱい星人、いや、おっぱい大明神の錦織直太様が絶対に許さん!」
俺は逆転裁判の成歩堂龍一弁護士の如く、格好良くビシッと右手を伸ばし、人差し指を殺人教授に突きつけた。
「……」
全員、さっきとは違う意味で固まった。
空気が突き刺さるように痛い。
簡単に言うと、「やっちゃった」感バリバリで、俺は穴があったら入りたくなった。
「ちょっと先輩、前半はいいこと言ってるけど、後半は単なる自分の趣味嗜好でしょーが!」
「そうよ、馬鹿錦織、そんなんじゃうちの糞馬鹿母は説得できないわよ!」
「久々に小生も、イラッときました。教授、もう食わせちゃいましょうか?」
「……」
一拍置いて、ギャラリーから総突込みを受け、俺は泣きたくなり、家に帰って引きこもりたくなってきた。
こんなことなら弁論術でも習っておくんだったかしら。
「でも、基本的には先輩の意見に賛成します。
あたしは、駆虫薬を貰ってまで、こんな殺人稼業に加担したいとは思いません。
何より、あたしに優しくしてくれた中野先輩を殺した人を、けっして許すことは出来ません!」
俺よりもよっぽどネゴシエーターに向いている聡子が、熱い援護射撃をしてくれる。
ありがとうございます本当に。
駄目駄目な彼氏でごめんなさい。
「お母さん、お気持ちはうれしいですが、私も、そこまでして病気を治そうとは思っていません。
大事に育てたマウスたちが全員薬殺されたときは、家族を処刑された気持ちになり、ショックで何も出来なくなりましたが、殺された女の人たちにだってもちろん皆、家族がいます。
これ以上そんな人々を、私一人のためだけに増やし続けることは出来ません!」
今やまったく涙を流すことをやめ、毅然として母親に立ち向かう早百合は、いつもよりも一回り大きく見えた。
「交渉決裂、というわけか」
氷のような表情の蛇池教授が、挙げたままの右手を、かすかに動かそうとした。
外のざわめきが一段と強くなり、獣臭が息もできぬほど濃く感じられる。
幼少のみぎりは神童で文学少年だった俺は、こんな非常時にも関わらず、今の状況に良く似た、泉鏡花の「高野聖」の有名な一節を思い出した。
魔女にたぶらかされ人外の姿に変化させられた元人間たちが、夜更けに主人公の泊まる家の周りをぐるりと取り囲むシーンだ。
このときは魔女のとりなしで、何事も無く朝を迎えるのだが、そんな奇跡は期待できそうになかった。
審判の手が振り下ろされるかと思われたそのときだ。
泣き止んで、思いつめた表情をしていた早百合が、誰もその存在を忘れていた、床に落ちたバットを足で蹴り上げ拾い上げると、示現流の志士の如く、雄叫びを上げながら、自分の母親に斬撃をくらわせんと踊りかかった。
さすがの教授も脳天をかち割られるのは嫌だったのか、慌てて避けると、なんと小さな剣士は、勢いをかって、そのまま畜生道の地獄の真っ只中に飛び込んでいった。