第六十三話 逃走
「くそっ、まだ追ってくる!」
ふもとに着いた俺は、「エロス丸3号機」の後ろに聡子を乗せると、一目散に大学を目指した。
しかし2、300メートルも来たとき、後ろから例の鳴き声が聞こえてきた。
街灯の側を通りかかったとき、ちらりと後ろを振り返る。
巨大ネズミたちが追ってきている!
食事を邪魔された怒りに目をきらりと光らせ、口先から血らしきものを滴らせた、中型犬ほどの大きさもある数頭のネズミが、後方から全力疾走で追いかけてきているのだ。
俺は恐怖にかられ、ペダルを漕いだ。
大学まではまだ2キロ近くある。
その間はほとんど田んぼと林ばかりで、民家は道から外れたところにしかない。
自転車で大学まで逃げるしかないだろう。
それまでに諦めてくれればいいのだが……。
しかし悪魔の群れはいつまでも追いかけてきた。
差はなかなか縮まらないのだが、俺の体力も二人乗りのためか急激に低下し、徐々にスピードが落ちている。
このままでは遠からずジ・エンドだろう。
俺はペダルを全速力で漕ぎながらも、脳細胞をフル回転して考える。
この化け物サイズのネズミたちは何なのだ?
この前カエル狩りの途中に遭遇したヌートリアよりもビッグサイズだ。
あんなもの日本に生息するのか?
そしてあの女性は何故死んでいたのだ?
どう見ても、あの状態で生きているようには見えなかった。
網膜に焼きついたかのように忘れられないあの光景が蘇る。
血塗れの胸元。
血塗れのラビットファー。
「首筋を……噛み千切られたのか?」
成る程、それなら納得がいく。
あれほどの大きさのネズミなら、数頭で襲いかかれば十分可能だろう。
彼女はあの捕食者たちに狩られたに違いない。
そして死肉を貪られていた。
至極単純明快な結論である。
めでたしめでたし……ってなんでネズミがわざわざ人間を喰らうんだ!?
もっと襲いやすい獲物がいるだろうに。
それに、記憶のどこかでなにかが引っかかっている。
「巨大ネズミ……目玉……おっぱい……」
この生命の危機に及んで、俺の灰色の脳細胞が、信じられない結論を導き出す。
まさか、そんな、いや、でも、しかし……!
「聡子ちゃん! 俺の携帯から、早百合ちゃんにメールを送ってくれ!
巨大ネズミに追われて城山から大学方面に向かっているから、すぐ来てくれって!」
俺はポケットから携帯を取り出すと、俺の腰にしがみ付いている聡子に、後ろ手に渡し、更に数語付け加えた。
「わ、分かった!」
聡子は気丈にもしっかり返事すると、高速でピポパポし出した。
さすが近頃の娘さんは、男よりメールを打つのが早い。
俺は少し安堵すると、ハンドルを握りなおし、ペダルを踏みしめた。
そのときである。突然「エロス丸3号機」が嫌な金属音を立てると進まなくなった。
チェーンが外れたのだ。
日ごろ手入れを小まめにしていなかったのが祟ったのだろう、急な全速力に耐えられなかったのだ。
ネズミの鳴き声は近付いてくる。
俺は諦めて愛機を道に横倒しにすると、聡子の手を引いて、夜道を走り出した。
「暑い……」
聡子はブラウスに手をかけ、走りながら脱いだ。
下は薄手のシャツである。
ちなみにコートはとっくに脱ぎ捨てていた。
俺も体中、汗で塗れていた。
10月の夜だが、身体は走り続けたせいか燃えるように暑い。
火のような息を吐きながら、俺はもう一度後ろを振り返った。
周囲は遠くの電灯に照らされぼんやりと視界に映るだけだが、巨大ネズミの影は見えず、鳴き声もしない。
「良かった……」
深いため息をつくと、俺たちはスピードを緩め、歩き出した。
遠くに大学の明かりが見える。
誰かがまだ残って実験をしているのだろう。
もう少しでゴールだ。
その時である。
「キーッ!」
いきなり聡子の右手の藪が割れたかと思うと、黒い影が飛び出してきた。
影は凄まじい速さで彼女に襲い掛かると、その豊かな胸元に噛み付こうとした。
「やめろおおおおおおおおおお!」
俺は神速で彼女を突き飛ばすと、二人で藪の中に転がり込んだ。
以前誓いを立てたように、今こそ彼女を守らねばならない!
二度と失いたくない!
焼け付くような痛みが首筋を掠めたが、その思いだけが全身を動かしていた。
「錦織―っ!」
いよいよ死を覚悟したとき、死神ではなく、天使の御声が俺を救ってくれた。
あのだみ声の母親から、どうしてこんな天上の音楽のような美声を持つ娘が生まれたのだろう。
透き通った鈴の音の如き声が響いた途端、俺の周囲の物音が止まった。
次の瞬間、がさごそと藪を走り去っていく物音が聞こえ、やがて再び静かになった……いや、こちらに駆け寄ってくる足音と、荒い息遣いが夜道に木霊している。
「錦織、ユッキー、無事だった!?」
小さな救世主は、なんと木製バットを持参していた。
少し痩せたその身体に、その獲物はあまりにも似合わなかった。
か弱い足で無理矢理走ってきたのだろう、月の光に照らされた足元は擦り傷だらけで、小さな靴も今にも脱げそうだった。
「お嬢様、そんなに急がれると転びますよ!」
数秒送れてひょろ長い影が、彼女の後ろから現れた。
藪の中で寝転がったままだった俺は、よろよろと身体を起こし、うめき声と共に、「聡子はどうなった!?」と問い質した。
「大丈夫よ、怪我は無い」
すぐ側で本人が答える。
振り向くと、傷一つ無い聡子が、泥だらけの笑顔を見せていた。
俺は大きく溜息を吐くと、彼女を抱きしめた。
「あら、見せ付けてくれるわね」
「ま、よろしいではないですか、これぐらい」
外野二人に揶揄されながらも、俺たちは初めての熱いキスを交わした。
土の味がした。




