第六十二話 満月
「綺麗……」
「ねっ、月見には最適の場所でしょ?」
煌々と照らす満月を見上げながら、俺は得意気に自慢する。
夜風は肌に冷たいが、顔は上気しているせいか、やけに火照っていた。
俺はここぞとばかり、アメリカ人のようにさりげなく、聡子の肩に手を触れようとした。
「ねぇ先輩、蛇池教授と何かなかった?」
「えっ、な、何!? 何もないよ、本当に」
後数ミリまで手先が近付いたとき、急に聡子の声音が刺々しくなり、俺は本能的に手を引っ込めた。
微妙に返答が上ずってしまった気がする。
「そう? なんだが先輩の手から、あの教授の香水の臭いがした気がしたの」
「へ~、それは、きっと教授の持ち物にうっかり触れちゃったせいかもしれないよ。
あの教室、俺の部屋以上に乱雑だし」
「そう、そうならいいけれど……」
「だってそんなAVみたいなことが、実際にあるわけないでしょ!?」
「まあ、それもそうねー」
クスッと聡子は笑みを浮かべ、また空を見上げた。
史上最大の危機を回避できたことにホッとし、俺は心の中で大きく溜息をついた。
それにしても、女の勘とは恐ろし過ぎる。
彼女の嫉妬妄想は瞬時に爆発するし、そうなったらどんなに弁解しても無駄だ。
確かにあの一件は、俺には欠片も非が無いが、あえて告げない方が二人のためだろう。嘘も方便。
「それにしても素敵な場所ね。連れて来てくれてありがとう、先輩」
「ど、どどど童貞じゃなくて、どういたしまして」
礼を述べられ、やや気恥ずかしくなった俺は、彼女と目を合わせられず、足元を見つめた。
苔むした古い石垣の上に、一面にススキが生い茂り、少しだけ刈り込まれた一角に俺たち二人は立っていた。
ここは大学から少し離れたところにある、湖沿いの小高い山の上で、土台だけとなった古い城跡が残っている。
人はここを城山と呼び、何の施設も無いが、散歩コースや花見、月見の際に利用していた。
俺たちは、大学から夜道を「エロス丸3号機」にタンデムし、デイジーデイジーし、つまりは二人乗りしてここまで辿り付いたのだ。
ガタがきた愛機にはちと過酷なツーリングだったが、車が無いから仕方が無い。
来年こそは、金を溜めて自動車学校に通おうと、俺は心に誓った。
「少し寒くなってきたねー」
聡子のおっしゃる通り、風が強くなってきた。
話しているうちに、空はいつしか雲が出て、北風に乗って勢いよく吹き流されていく。
曇り空にはレモンのような形の切れ間があり、そこから満月が顔を覗かせていた。
「まるで何かの獣の目玉のようだね」
「そうね……冷えるからそろそろ帰りましょう、先輩?」
「そうだね、俺は明日は休みだけど、聡子ちゃんは授業だしね」
もっと逢瀬を続けていたかったが、せっかく直った聡子の機嫌がまた何かの拍子で悪化してはたまらないので、俺は彼女と共に、降り口に向かった。
登山道は大した距離は無いが、周囲の木立がトンネルを作り、月も曇ってきたため、足元が心もとない。
俺は、懐中電灯を付けようか、やや逡巡した。
その時である。
カリカリという小さな物音が、風音に紛れて、木々の奥からかすかに響いてきたような気がした。
そして、時折フシューッという、ヤカンの沸騰したような音が、合間に混ざっているのもはっきりと聞こえた。
「……動物?」
聡子も気付いたようで、心細げに、俺の黒いジャンパーの裾を引っ張る。
「の、野良猫かなんかじゃないかな?」
俺は音のする方向に、懐中電灯を向けると、追っ払うつもりで、スイッチを入れた。
「!」
その場で見た光景は、俺の想像をはるかに超えていた。
夜露にぬれた落ち葉を布団代わりにして、一人の女性が地面に寝ていた。
いや、倒れていると言った方がいいかもしれない。
顔は良く見えないが、流れるような黒髪が地面に渦巻き、襟巻きのようなラビットファーつきの黒いスウェットを同色の厚手のシャツの上に羽織り、下は濃いデニムのジーンズに身を包んでいる。
俺にはファッションのことは良く分からんが、若い女性の好みそうな服装だろうとは推察できた。
恐ろしいことに、彼女の服は血にまみれ、元は白かったであろうラビットファーも赤く染まっていた。
横たわっても豊かな胸のうちの片方は、シャツが大きく破れて露出し、半分以上無くなっていた。
黄色い脂肪層から血が滴り落ちている。
そしてその傍らに、尻尾を別にしても体長6、70センチはあろうかと思われる、巨大なネズミが数匹群がり、肉を齧っていたのだ。
先程のカリカリという音は、明らかに彼らの口元から発していた。
もっとも、今はライトに驚いたのか、全部がこちらを凝視している。
懐中電灯の光を受けて緑色に輝く瞳は、エイリアンを連想させる、邪悪な意思を秘めていた。
一匹の口元から、何か丸いものがぽとっと零れ落ちる。
それが何かに気付いた俺は、咄嗟に聡子の目を手で覆い隠し、「見るな!」と叫んだ。
目玉だった。
俺は彼女の手を抜けそうなほど強く引っ張ると、無我夢中で山道を駆け下りた。




