第六十一話 脂肪
「よし、じゃあやるとしますか」
さっそく俺はスポイトでシャーレの何かいそうな部位から吸い上げると、スライドガラスに数滴落とし、カバーガラスを被せた。
先程の標本を抜き取ると変わりに差し替え、顕微鏡を覗く。
最初そこには拡大された脂肪片が映っているだけだった。
しかしいろいろプレパラートを動かし、広大な標本の海を当てもなく彷徨っているうちに、俺は求めていたものについに出くわした。
「こ、これは……」
俺は思わずうめき声をあげた。
それは茶褐色のいくつもの体節が連なっている、触角のようなものが生えた生き物だった。
細長く、ムカデに似ているが、それほど長くはない。
それが何匹も水中を泳いでおり、脂肪に群がっているようであった。
「何が見えるの、あたしにも見せて!」
我慢出来なくなったのか、後ろから聡子がせかす。
「いいけど、ショックを受けずに、落ち着いて聞いてよ。
これは……寄生虫だ。
たぶん幼虫だろう。
名前は分からないけれど」
「寄生虫ですって!?」
一瞬聡子の動きが止まった。
無理もない、そんなものが体内にいると分かって、ショックを受けない女性はいないだろう。
「形状からすると、裂頭条虫に近いんだけど……ひょっとしたらマンソン裂頭条虫の仲間なのかもしれない」
話しながら俺は、寄生虫学の講義の続きをやっと思い出した。
カシャッという音と共にスクリーンに映ったのは二匹のマウスだ。
大きいマウスと小さいマウスが並んでいる。
幻聴にも似た過去の教授のだみ声が、昼間の衝撃的な事件とオーバーラップして、俺の記憶中枢を揺さぶる。
「右のマウスは左のマウスの二倍ぐらい大きさが違うだろう。
実は右のマウスはマンソン裂頭条虫を寄生させたものだ。
この寄生虫は成長ホルモン様物質を産生し、宿主の成長を促すことがある。
宿主が成長することは、自分の餌が豊富になることでもあるからな。
この物質は他にもいろんな作用を持っている。
例えばリポ蛋白リパーゼを抑制し、脂肪を結果的に体内に増やすということまでしている。
また、宿主の免疫能を高めたりもする。
マンソン裂頭条虫は脂肪を食べて成長する。
よって宿主の脂肪の多い場所、つまり胸部、腹部、大腿部などに多く寄生するのだ。
また、眼部、臀部にも寄生する。
眼球の後ろっていうのは実は脂肪の塊でな……」
サルベージできたのはそこまでだった。
「今分かったよ。君のおっぱいが牛みたいに大きくなったのは、この寄生虫のせいだ。
マンソン裂頭条虫と同じかどうかは知らないけれど、この虫もなんらかのホルモンを出して、宿主の脂肪を増やしていたんだ」
「そんな……寄生虫が体内にいるなんて、危険じゃないの!?」
「俺も症状までは良く覚えていないんだけど、寄生部位にもよるんじゃないかな?
臓器によっては危険なこともあると書いてあったような……」
うろ覚えなので申し訳ないが、これ以上詳しいことは俺も知らなかった。
よくこの有様で寄生虫学の試験に受かったものだ。
蛇池教授は学生にそういう点では極めて優しい。
「誰がそんな真似を……何が目的で?」
「お金儲け、じゃ駄目かな?」
「そんなに高価な薬じゃなかったはずよ。
むしろ安かったくらいだって先輩が言ってた」
懐中電灯と月光のみの暗がりなのでよく分からないが、聡子の声が震えているのは俺にも分かる。
どう言って安心させたらいいのか、俺は途方にくれた。
「この寄生虫が、購入者たちの失踪と関係あるのかどうかは分からないけど、明日にでも専門家の蛇池教授に相談してみない?
先生のことだし、きっと力になってくれるさ。
それでも駄目なら警察に届けよう。
そして病院に行って、検査してもらおう」
「うん……」
ありったけの解決策を並べても、彼女の心は晴れることはなかったようで、うな垂れるのみだった。
これは彼氏としてはなんとかしなければならない。
俺は窓から差し込める月光に促されるように、外を眺めた。
丸々と太った満月が、わびしい山陰の中天にぽっかりと掛かっている。
「今夜はちょうど中秋の名月で、しかも月が地球に一番接近するスーパームーンらしいし、せっかくだからお月見にでも行かない?」
「えっ、今から?」
「ちょっといい場所を知っていてさ」
そういうと、俺はプレパラートを引っこ抜き、後片付けを開始した。