第五十八話 尋問
「で、わしに何の話じゃぃ?
いろいろあって疲れとるし、明日も早いんで、短めにして欲しいんじゃが……」
下宿の前で待ち伏せしていた俺を、深夜にもかかわらず、後藤先輩は部屋に通してくれた。
医者になったというのに、相変わらず崩れそうな昭和の建物に住んでいるのは、何としたことだろう。
今時風呂、トイレ共有という、信じ難い物件だ。
しかもどうやら汲み取り式らしく、嫌な臭いが玄関先から漂ってくる。
寄生虫的には理想的な環境だろうな、とつい夢想してしまった。
「先輩、最近、何か大切なものを失くしませんでしたか?」
俺はカマをかけてみることにした。
この男、のらりくらりとしているようでいて、結構計算高く、真相を聞きだすのは困難だろう。
まずはやんわりと責めてみるべきだ。
「童貞ならまだ大事にとってあるぞよ、童貞保存会会長さん」
「んなものはとっととドブにでも捨てて下さい!」
「冗談、冗談。
ところでお主の買ったリアルラブドールとやらはどうなったんかいのう。
わしにもいっぺん拝ませてくれんか?」
「あれは先日お亡くなりになりました、ってそんな話をしに来たんじゃない!」
いかんいかん、ついつい独特なスローペースに巻き込まれてしまう。
さすが俺のオナ師匠、一筋縄ではまいりません。
「先輩、博士論文の進み具合はその後どうですか?」
余裕をかまして鼻毛を引き抜いていた先輩の手が、急に止まった。
「い、いや、まあまあじゃよ……」
心なしか、声に先程までの力がない。
視線も夢遊病のようにうろうろと泳いでいる。
間違いない、どうやら図星だったようだ。
「俺、実はこの前、とある物を、変な場所で拾ったんですよ」
一気に核心に切り込んでいく。
ポケットに意味ありげに手を突っ込む。
朱塗りの人形が日の出のように徐々に姿を現す。
四畳半の緊張感が一気に高まった。
「かっ、返してくれぇ!」
鼻毛を放り出して突如襲い掛かってきた先輩を、立ち上がって軽くかわす。
これぐらいの展開は予想していた。
俺は中国史上最も有名な武将を血が出るほど固く握り締め、再びズボンのポケットに隠すと、正面から先輩を眼光鋭くねめつけた。
「返して欲しければ、あの晩、動物実験室で何をしていたのかを洗いざらい白状しろ!」
俺の想像通りだった。
ずぼらな先輩は、論文のコピーを他に残すほど、マメではなかったのだ。
だがその気持ちはなんとなく分かる。
もし論文に個人情報などが含まれている場合、無闇にパソコン内などに残しておくと、万が一パソコンがコンピュータウイルスに感染した場合、論文がネット内に流出し、面倒なことになってしまう。
実際それでニュースになった院生もおり、皆、データ管理には慎重になっている。
だから、このUSBメモリがなければ、大事な論文を完成させることが出来ない。
これは貴重な交渉材料だ。
簡単に返すわけにはいかない。
「あ、あの晩って……?」
「この期に及んでしらばっくれるつもりですか?」
俺はわざと、ポケットに突っ込んだ指を器用に鳴らす。
絹を裂くような先輩の悲鳴が、夜の下宿に響き渡った。
隣の壁をどんどんと叩く音がした。
おっと、やり過ぎたかな?
「わ、わかった、全て話す!」
「最初からそうしてくれればいいんですよ」
俺は座布団に腰を下ろすと、買ってきた緑茶のペットボトルをキュッと開けた。
やけに喉が渇いていた。
「前にも話したと思うが、論文を書くのはとても大変なことなんじゃよ。
何回提出しても書き直させられるし、実験も思うようにはいかん。
ようやく完成間際になったが、それでも夜見教授の機嫌一つでどうなるか分かったもんじゃない。
いつしか、わしはあいつに逆らえんようになってしもうた」
先輩はうなだれたまま、鼻毛とティッシュの散らばった床をぼんやりと眺めながら、隣人にはばかってか、蚊の鳴くような声で物語り始めた。
俺は黙って茶で喉を潤した。
「あの晩、研究室に遅くまで残っていたわしが帰り支度をしていると、夜見が一匹の子ネズミの尻尾を片手で摘んで、
『さっきこのマウスを廊下で捕まえた。
こんな幼若な個体を使っているのは、寄生虫学教室だけだ。
すまんが後藤、今から一つ、動物実験室に忍び込んで返してきてやってくれ。
俺はあの女狐、いや、蛇女とは顔を合わせたくないんでな』
と言うなりわしに投げつけてきたんや。
もちろん断れるはずもなく、言いなりになって、わしはご命令通り、ミッションコンプリートしたってわっきゃ。
ちょっと不自然な気はしたけれど、それがまさかあんな騒ぎになろうとは、わしは知らんかったんや!
本当や!
どうかこの通り、許してくれ!」
車にひき潰されたカエルの如く、無様に這いつくばって謝る哀れな先輩を見下ろしながら、俺はしばしの間、思案にくれた。
教授がトムとジェリーの追いかけっこさながら廊下でマウスを捕まえたなどという戯言は、どう考えても信じがたいが、長い付き合いから、この状況下で、意外と小心者の先輩が嘘をついているようには見えなかった。
だから、教授が彼にそのように語ったという話は事実だろう。
それにしても、なかなかうまいやり方だ。
マウスを忍び込ませたのは、あくまで善意から出た行動であると主張できるし、自分の手は汚していない。
証拠を突き止めようにも、あの無数のマウスの中から、特定の一匹を探し出すなど、海に落ちたコンタクトレンズを探すようなもので、しかも全てはとっくに焼却炉の灰と化している。
後藤先輩の証言があったとしても、奴を追い詰める効力の欠片もないだろう。
つくづく奸佞邪知に長けた男だ。
俺は無言のまま立ち上がると、全力をもって、血の様に赤いメモリを土下座している先輩の角刈り頭に叩き付け、そのままさようならも言わずに豚小屋もかくやという塵芥に満ちた四畳半を後にした。