第五十七話 シャケ
「実はですね……」
俺はいつの間にやら関羽USBをポケットから出し、このおぞましい物体にまつわるエトセトラについて、一同の前で語っていた。
正直演説はあまり得意でないため、ややつかえつかえだったが、おおよそのことは伝わったと思う。
教授をはじめ聴衆の皆様は、黙って耳を傾けていたが、聞き終えた教授が、ぼそっと感情の篭らない声を発した。
「夜見の差し金か……?」
「シャケ」という隠語をご存知だろうか。
昔は新巻鮭を古新聞で包んで持ち運びしたそうだが、それと同様に、新聞紙で固く包装されたもの、つまり、実験動物の死体のことである。
その日の夜は、大量の「シャケ」が動物実験室より出荷され、俺は何往復したか分からないほど、ゴミ捨て場と寄生虫学教室を行き来した。
明星はピストンと化してマウスに麻酔薬を注入し、早百合は息絶えた彼らを次々と新聞紙の屍衣で包み、俺はそれを台車で運ぶ。皆、黙々と自分のやるべき仕事に従事した。
誰も何一つ喋らず、アウシュビッツもかくやという大量虐殺は、粛々と進められた。
俺が今まで毎日のように餌を与え、水を世話し、ケージを整え、プラグをチェックしたマウスたちが、物言わぬ肉塊へと変貌していく様は、とても言葉では言い尽くせない。
地獄があるなら、俺はその最底辺に落とされるだろうな、とふと考えてしまったくらいだ。
たかが、たかがマウスなのに……たかがマウス?
いや、違う。
この不潔で矮小なげっ歯類が、人間以上に感情を有し、賢く、個性的な生き物である事を、この半年間で俺は嫌というほど理解していた。
彼らは、尻尾を持って吊り下げられると、例の蒸気のような音を立てて抗議したり、手を使って器用にペレットを持ったり、親が育児放棄した子供を懸命に世話するなど、いくら眺めても見飽きないほどの魅力を秘めていた。
複雑な迷路をクリアしたり、仲間を助けたりする実験などを教科書でも読んだが、意外に知的で、同胞思いの一面を持っているのだ。俺は、留年と失恋の孤独を、彼らに癒してもらっていたことを、今になって理解した。
短期間付き合っただけの俺がそうなのだから、何年間も世話してきた早百合にとっては、家族も同然の存在だったのだろう。
彼女はこの憂鬱極まる作業の間、決して取り乱さず、機械の様に黙々と「シャケ」を生産した。
だが、そんな彼女の心中が如何ばかりか、隣で台車を持って待ち構えていた俺には、容易に察しが付いた。
早百合の身体は小刻みに震え、肌の色はチアノーゼのように蒼かった。
俺は居たたまれずに、「シャケ」が溜まるとそそくさと階下に向かった。
壊死したような脳髄の中で、俺は、「夜見の差し金か……?」という、先程の蛇池教授の言葉を思い返していた。
夜見教授が後藤先輩を唆し、こんな恐るべき所業に手を染めさせたということか?
だが、何のために?
夜見教授と蛇池教授の間に横たわる確執といえば……。
「三教室の合併のことか!」
俺は思わず声に出してしまった。
そうか、合併案に反対派の夜見としては、ここで寄生虫学にバイオハザードを起こしてもらえば、蛇池教授の責任問題を問い詰め、なし崩し的に合併を阻止できるという腹積もりなのかもしれない。
やや迂遠なやり方の気もするが、実際こちらに与えるダメージは、ご覧の通り計り知れないし、蛇池教授も当分は事態の収拾に追われるだろう。
さすが鉄門出身の悪魔的頭脳、馬鹿には出来ない。
「これは、一度先輩とじっくり話し合う必要があるな」
数十匹の骸を霊柩車の如く運びながら、俺はポケットのUSBを固く握り締めた。