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第五十六話 薬殺

「センダイウイルス?」


「そうだ、お前も知ってのとおり、最近マウスどもの様子がおかしいので検査したところ、複数頭から検出された」


 教授室のソファーに座った蛇池教授が、苦い顔をしながら、コーヒーを苦そうに啜る。


 室内には、俺と教授の他、早百合と明星も同席しており、皆、硬い表情で、口元をきつく引き結んでいた。


 窓から差し込む夕日に照らされた俺たち一堂は、水銀のような重苦しい雰囲気に包まれ、コーヒーの馥郁たる香りが、やけに息苦しく鼻腔を刺激した。


「それで、どうするんですか?」


 誰も微動だにしそうにないので、耐え切れなくなった俺が口火を切って質問した。


「学内には、他にも動物実験室があるが、ここ以外は皆、業者から直接購入したマウスを使用している。


 つまり、繁殖させているのはうちだけだ。


 センダイウイルスは、幼若なマウスに感染・発現しやすいため、成熟したマウスのみをその都度注文している他の教室が発生源の可能性は低いだろう。


 感染ルートは今のところ不明だが、この寄生虫学教室からパンデミックを発生させることだけは、断じて許されない!」


 教授はコーヒーの入ったリラックマの中国製マグカップを、テーブルに叩き付けた。


 割れこそしなかったが、漆黒の飛沫が辺りに飛び散り、教授の白衣に染みを作った。


「つ、つまり……」


 その場の全員が、ごくっと喉を鳴らす。


「ああ、想像通りだ。


 本日の緊急教授会で決定したんだが、当寄生虫学教室の動物実験室のマウスは、全て本日中に薬殺処分されることとなった」


「薬殺!? 


 教授……いえ、お母さん、なんとか中止出来ないの?」


 教授が言い終えるや否や、血相を変えた早百合が、教授の前にいた俺をなぎ倒し、教授に喰らいつかんばかりに詰め寄った。


 これほど彼女が取り乱したところは、かつて見たことがなかった。


 もっとも突き飛ばされた俺はソファーに頭から突っ込み、ろくに見ることすら出来なかったが。


「無理だ……教授会の決定は絶対だ。


 私も、せめて薬殺対象は感染済みのマウスだけにしてくれと提案したが、感染ルートも分からず、また、全頭検査する余裕もないため、無下に却下された」


「そんな……ひどい」


 もみじ饅頭のように小さな早百合の手が拳を作り、わなわなと震える。


 うつむいたまま、歯を食いしばり、言葉を詰まらせていた。


 ようやく頭を引っこ抜いた俺は、そんな彼女に何て声をかけていいのか分からず、途方にくれていた。


 マウスがいなくなると、今後教室は、いや、彼女はどうなるのだろう。


 学校にも行かず、動物実験室にしか居場所のなかった少女は、今後、この宇宙のどこに、新たな自分の王国を築かねばならないのだろう。


 そして俺は、この小さな師匠に、何をしてあげればいいのだろう。


 答えの出ない悩みに悶々とするうち、無意識にズボンのポケットをまさぐっていた俺は、何か固い物に指先が触れるのを感じた。


 見る間でもなくわかる。


 あの、S子2号ちゃんを吉村家にプレゼントしに行った晩に拾った、関羽USBだ。


 俺はあの晩、研究室でうたた寝しながら待っていた早百合に、動物実験室での異変及び落し物のことを報告したが、彼女はずっと研究室にいたためか、何も気付かなかったという。


 そして、彼女が午前0時少し前に研究室に着いた時は、廊下の奥に明かりは灯っていなかったとのこと。


 ということは、電気が付いていたのは、ごく短い間だったんだろう。


 何者かは、彼女が研究室に入った後に、動物実験室に侵入し、明かりを付けて何事かを速やかに行い、帰り際に、このフラッシュメモリを落としていったのだ。


 この悪趣味なUSBは、俺がロッカーに駆け込む前には明らかに存在しなかった、と思う。


 もっとも、廊下全体が暗かったので、隅々まで確認していたかというと、ちょっと厳しいものがあるが。


 そして、その翌日、俺と一緒に朝からプラグチェックをしていた早百合が、「あら、一匹多くないかしら?」と、奇妙なことを口にしたのだ。


 昨晩もウイルス学の人知を超えた過去問に苦しめられ、「バイフリンゲンシー」なる謎の単語が分からず懊悩し、鬼のように調べた結果、「癌化した細胞と細胞の間を顕微鏡で観察すると、きらきら光って見える現象」であるとやっとの思いで判明し、脳みそコネコネし過ぎて疲労コンパイル状態だったため、俺は「ふーん」と適当に聞き流していた。


 だって、こんなに膨大な数のマウスを一々把握しているなんて、レイプマンじゃなかったレインマンでもない限り不可能だろうと、高をくくっていたのだ。


 そしてその些細なことは、昼飯までにはきれいさっぱり忘れ去っていた。


 だが、今になって思えば、これらの事象が一連の繋がりを持って、脳裏に輝いてくる。


 マウスは増えていたのだ。


 何者か-ええいもう面倒だからぶっちゃけると、後藤先輩のあほんだらは、どこぞで入手した、センダイウイルスに感染済みのマウスを隠し持って、動物実験室のケージの一つに滑り込ませ、じわじわと汚染が拡大するよう仕向けたのだ。


 あんな悪趣味なメモリを持つ人間は、山陰中探しても彼以外ありえないし、実際俺が、ボトムズ仲間と出かけたネットカフェで、エロ画像を収拾したりフォトショップでアイドルのアイコラ画像を作成したりする傍らUSBの中身を確認したところ、「新種の○○ウイルスの塩基配列の同定及び、様々な実験動物における血清疫学的ならびにウイルス学的研究」という、どこかで聞いたような題名の論文データが入っており、執筆者名に、あの垂れ目の若年寄の名前が燦然と輝いていた。


 ついでに、あの名前をかたるのもヴォルデモート卿並におぞましい、ウイルス学の教授その人の名前も、協力者欄にクレジットされていたので、危うく俺は関羽の首をへし折るところだった。


 しかし、一体何のために、アホだがメガ盛り牛丼を奢る程度には気前のいい後藤先輩が、そんな愚にも付かない蛮行をやらかしたのだ!?

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