第五十五話 ヌートリア
「うわわっ!」
黒い水しぶきが豪快に松本の顔面にかかる。
下膨れの顔をさらに膨らませ、「ひどいじゃないですか」と彼は内藤に抗議した。
「悪い悪い、わざとじゃないぞ。
そんなとこにぬぼ~っと突っ立っているからだにゃ~。
それにしてもお前さん、ちっとは避けろよ」
内藤は白い歯を見せて笑った。
俺と聡子もつられて笑った。
よく晴れ渡った秋空の下、俺、聡子、内藤、松本の四人は、カエル捕りに因幡湖まで来ていた。
大学近辺の浅瀬はやたらとペットボトルや空き缶、紙くずなどのゴミが多く、ヘドロ臭が漂っていた。
それでも我慢してタモを突っ込んでいたのだが、一時間たってもまったく成果なく、街から離れたもっときれいな浅瀬まで歩くことになった。
「何でこの歳になってカエル捕りなんかしなくちゃいけないんだろう。
ていうか子供の頃も一回もしたことないんですけど……」
意外と都会育ちの松本が、べっとりと顔に張り付いた汚泥を右手で拭い、左手にコカ・コーラのペットボトルを握りしめながらぶつくさ言う。
「しょうがないだろう。
俺っち、薬理学はさぼり気味だったし、実習点ぐらいはよくないと後期で挽回できないしさ~」
内藤が水に濡れた靴を地面に擦りつけ、キュッキュッといわせた。
「くそ、ヘドロが全然とれん」
実はカエルは薬理学実習に使うためのものであり、普通は業者から購入するのだが、それを自力で捕ってきた班には実習点が加算されるのであった。
ボトムズは悉くこの科目に引っかかっており、どうせ暇を持て余していたので、急遽休講日にフロッグハントの集いを開催したところ、何故か聡子までが一緒に行きたがったので、仲間の手前、気恥ずかしかったが、ご同行頂くこととなった。
「さーちゃんも一緒に来ればよかったのにね。
ネズミを扱うのが得意だし、カエル捕りも上手そうじゃない?」
陸上部のジャージとウインドブレーカーを身に付けた聡子が、自分の言ったことが可笑しかったのか、クスッと笑った。
一時期ご機嫌斜めだったが、恋敵のS子2号ちゃんを無事(?)処分したためか、角が取れて表情に明るさが戻り、俺は心中ホッとした。
もう、彼女とはこじれたくはない。
あんな思いは二度と御免だった。
ちなみに風の噂では、吉村はあの後高級マンションから引っ越したらしい。
何があったかは知らないが、俺は、S子2号ちゃんに感謝の念を捧げると共に、冥福を祈った。
「いや、あいつはそんなこと言ったら怒ると思うぞ。
しかし今日は本当に暑いね。真夏みたいだ」
同じくジャージとウインドブレーカー姿の俺は、水面に反射し揺らめく秋の日が眩しかったので、目をすがめた。
あのおぞましくも懐かしい、海辺のバイトを思い出す。
「そもそもこの季節にカエルが果たして捕れますかね?
もう茶色に変色して冬眠しているころじゃないんですか?」
松本が相変わらずぶーたれている。
カエル捕りもしたことないくせに、うるさい奴だ。
「10月だからまだけっこういるんじゃにゃいのか?
たまに鳴き声を聞くぞ」
「そりゃ内藤氏の聞き間違いじゃないんですか?
虫か何かの」
「虫とカエルを聞き間違えるかい、このシチーボーイが!」
言い争っている二人の側を、赤とんぼがハート型に繋がって飛んでいく。
池の周囲は葦が背高く生い茂り、風になびいていた。
のどかな風景の中、遠くで子供たちのはしゃぎ声が聞こえた。
「それにしても、さーちゃん最近元気ないようですけど、どうしたんですかー?」
聡子が心配げな表情で、綺麗な形の良い眉を八の字にして聞いてくる。
「いや、俺も詳しいところはよく分からないんだけど、どうもマウスの間に病気が流行っているようなんだ」
俺はなんとなく周囲に聞こえないように声を潜めた。
早百合の話では、今月に入って、若いマウスを中心に、食欲不振、体調不良といった症状が、よく見かけられるようになり、中には死ぬ個体もぽつぽつと見られるという。
心配になった彼女は、毎日ずっと動物実験室に篭るようになり、今日の集いにも声をかけてみたのだが、にべもなく断られた。
「そうだったんですか、最近あたしも実習や勉強で忙しくなって、あまり会えなかったんですよ。
変なウイルスとかじゃないといいですけどね」
「変なウイルス、か……」
以前素手でマウスに触れたとき、早百合が激怒したときのことを、俺は記憶の底からサルベージした。
あの時彼女は、何と言ってたっけ……?
「あ、ヌートリアだ!
昔毛皮を捕るために、日本に連れてこられたやつですよ」
そばを歩いていた松本が大声を上げる。
見ると湖面に、やや大型のネズミのような生き物が悠然と泳いでいた。
体長30㎝はあろうか、こちらの方に進んできたが、突然方向転換し、対岸に向かって去っていく。
鳥の羽ばたく音が進行方向から響いてきた。
喰われるとでも思ったのだろうか。
「お前さん本当によく知ってるねぃ……動物博士だったのか?」
内藤が呆れたような感心したような声で答える。
「錦織―っ!」
ぼんやりとヌートリアとやらの後ろ姿を眺めている俺の鼓膜に、聞きなれた少女の雄叫びが突き刺さり、何事かと俺は振り向いた。
4階建ての大学の校舎が、早くも落ちかけてきた太陽を背に、輝いて見えた。
そこから続く、湖岸沿いの道を、ワンピースを着た白い影が走っている。
その後ろからは、白衣をまとったこれまた白いひょろっとした陰が、金魚の糞のように追いかけてくる姿が見えた。
稲刈りの終わった枯れ田から、焚火の煙が一条空へと上がっていた。
まるで天へ還る魂のようであった。