第五十一話 成長
「うがぁ、なんですか、この尖った物体は!?」
「あ、すいません、お久し振りです」
「相変わらずですね、君は……」
木彫りの顎先を額に突き刺したまま、渋い顔で明星は俺を蔑んでいる。
だが、以前ほどの冷酷さを感じないのは気のせいだろうか。
「おお、すまん明星、コーヒーカップを下げてくれ。
それでニュースというのはだな、ウイルス学教室と、細菌学教室と、我が寄生虫学教室を、一つの教室に合併し、医動物学教室として再編しようという動きが、教授陣の間で出てきたんだよ」
「なーんだ、死んだんじゃなかったのか……」
俺はがっかりして、腰を下ろした。
ま、そう簡単にくたばりそうには思えなかったが。
以前ウイルス学教室に入った新米の業者が、突然原因不明の高熱を出して仕事を長期間休んだという言い伝えや、どれだけインフルエンザが流行ろうとも、あの教室の人は誰一人休まなかったという事実もあり、謎の免疫が守護しているのではないかと、学生どもは噂しあっていた。
「でも、それがどうして俺のためになるんですか?」
「とりあえず話を最後まで聞け。
前にも喋ったが、夜見教授の学生いじめは、教授会でも問題視されており、どうにかすべきではないかとの声も上がっている。
しかし強情な彼は持論を曲げようとしない。
そこで、奴の権力を弱体化させるため、三つの教室を一つにまとめ、名前上は元の通りの教授だが、その権能を三分の一にしようとする作戦が、若手教授たちの間で提案されたのだ、というか、私が立案した」
「はぁ……つまり、具体的にどういうメリットが、俺にあるんですか?」
「まだ分からんのかこのバチカン市国め。
つまり、教室が一つになれば、当然試験も一つになるだろ。
いくらあの鬼が落とす落とすといったところで、全体の三分の一しか点数の配分がないため、そこで少ない点を取ったものは、他の二つで頑張れば、無事合格できるかもしれんというわけだ」
「とても素晴らしいお考えじゃないですか!」
今こそ俺は明瞭に理解した。
ブラボー!
まるで俺のためにあるような改革じゃないか!
「既に細菌学の教授との根回しは終わっている。
あの教授も若手で、夜見に対する怒りを募らせていた人間だ。
諸手を挙げて賛同してくれた。
もちろん、この改革によって、私たちの権限も小さくなり、ひょっとしたら予算も減らされることになるやもしれん。
だが、学生たちのことを思えば、これくらいの血は流さねばならない」
「是非是非是非ともお願いしますぅ~」
俺はソファーから飛び降りると、教授のハイヒールを舐めんばかりに頭を下げた。
「本当にプライドの欠片もない奴だな。
ま、今度の学期始めの教授会で進言するつもりだ。
どうなるかは分からんが、首を長くして待っていろよ」
教授は不適に微笑むと、足元に転がっていた明星の血の付着した仮面を、靴の踵で踏ん付けた。
「ふーん、良かったじゃない」
「ああ、順風満帆とはこのことだな。
生きる希望がもりもり湧いてきたよ」
久々にマウスのケージを掃除しながら、俺は顔がにやけるのを止められず、くっちゃべっていた。
いつもはあまり乗り気でないこの作業も、今日は鼻歌交じりですいすい進む。
何しろこれ程のビッグニュースはピューリッツァー賞レベルで、夜見の悔しがる姿が拝めるかと思うと、溜飲も下がるというものだ。
こいつは秋から縁起がええわい。
「あまり浮かれていると、足元を掬われるわよ。
まだ決定したわけでもないんだし」
相変わらず冷静沈着を絵に描いたような早百合嬢が忠告を垂れるも、俺の心は退かぬ媚びぬ省みぬ状態で、つまりは気にもしなかった。
「もし合併案が駄目だったとしても、今度こそ実力で受かって見せるさ。
師匠の評価だって前よりも上がってきたじゃないか」
「そうね、確かに解答のセンスは随分よくなってきたわ。
それだけは認めてあげる」
おお、珍しく早百合閣下からお褒めのお言葉が出て恐悦至極!
「だけど知識はまだまだね。
あなた、この前の『発熱、頭痛、倦怠感、嘔吐、下痢が生じた日本人の1歳の女の子の罹患したと推測されるウイルスを上げよ』という問題で、どうしてポリオなんて書いたの?」
「え、だって教科書通りの症状じゃんか、これでも勉強したんだぜ」
「馬鹿ね……」
明らかに「呆れた」というニュアンスの溜息を彼女がついた為、膨れ上がった俺のテンションは、急速にしぼんでいった。
一体何が間違っていたんだ?
「ポリオは、日本はおろか、世界中で根絶されつつあるウイルスで、現在常在している国は、パキスタン、アフガニスタン、ナイジェリアの三ヶ国だけよ。
ちゃんとニュースをチェックしろと言ったでしょう。
こんな見え透いた罠に引っかかるようでは、まだあの化け物は倒せないわよ」
「そ、そうだったのか……」
俺は改めて、自分の立ち向かう壁の強大さを感じ、頭身の毛も太る思いだった。
勉強すればするほど、自分が如何に無知であるか、身に染みて分かってくる。
「やっぱここは一つ、蛇池教授に頑張って頂くしかないか……」
「結局他力本願なのね。
さっきまでの威勢はどうしたの?」
「すいませんごめんなさいアイムソーリーこの通りです。
全くもって俺が馬鹿でした」
「分かればよろしい」
女王様もとい女教師モードに突入した早百合が満足げに頷いた。
気のせいか、やや威圧感が増大している気がする。
あれ? ひょっとして……。
「早百合ちゃん、ちょっと背、伸びた?」
「あ、分かる?
春から1センチ伸びたの、凄いでしょ」
凍てついた態度がころっと変わり、年齢相応の、春風のような笑顔が吹きぬけた。
「凄い凄い!
杉の年輪より凄いよ早百合ちゃん!
さっそく家の柱に傷付けなくちゃ!」
時の止まったようにずっと変わらないと思っていた彼女も、少しずつだが着実に成長していたのだ。
俺はなんだか娘を持った父親の気持ちになり、胸元がほっこりするとともに、何か新たな治療法でも受けているのだろうかと、少し気になった。




