第四十一話 真夜中の勉強会 その1
深夜。
風が泣いていた。
鬼哭愁々とはまさにこのことだろうか。
開け放した窓の向こうで、夜風が木々の葉を撫で、悲鳴を上げさせ、闇へと散っていった。
「うぴぃっ!」
ただでさえ夜の大学とは不気味なものだが、俺は風の音に思わずびびり、つい、情けない声を上げてしまった。
最近悪夢にうなされることが多かったため、少々神経過敏になっていたらしい。
「何女の子みたいな悲鳴出してんのよ」
早百合が飽きれたようにこちらを見ながら、研究室の電気をつけた。
時々ちかちか点滅する蛍光灯の光が、普段はうざったいのに、今は安心感すら覚える。
「う、うるさいやい。
蚊に刺されたんでびっくりしただけだよ」
「そんなことより早く解答用紙を見せなさい。
ちゃんとやってきたんでしょうね」
早百合、いや、俺の勉学の師は、部屋の中でも一番上等な肘掛け椅子に席を占めると、小さな身体を思い切り踏ん反り返した。
誠に腹立たしいが、ここは我慢のしどころだ。
「はいはい、ご命令どおりきっちりやってきましたよ」
俺は肩にかけたカバンから、二つに折り曲げたA3のコピー用紙を取り出し、卒業証書のように、うやうやしく彼女に差し出した。
「ふむ」
彼女は似合わぬ椅子に腰を下ろしたまま紙を受け取ると、睨み付ける様にじっくりと目を通し始めた。
俺はなんとなく落ち着かず、部屋に散らばった用途不明のガラクタたちを、値踏みするかのようにしげしげと観察していた。
警備員さんに会ったら、なんて言い訳しようと思いながら。
あの海水浴場での騒ぎから、丸一日経っていた。
今日はバイトが休みだったため、俺は彼女の言いつけに従って、昨年度のウイルス学の過去問を、本番同様三時間かけて解きなおし、打ち合わせどおり、深夜十二時、寄生虫学教室の研究室に訪れた。
こんな夜更けに出歩いてもいいのかと訪ねたところ、現在母親の蛇池教授は、研究のため海外に行っているため、かまわないとのこと。
一人娘をほっぽっといて、一体どんな研究をしているんだか。
単なる観光じゃないのかなんて、勘繰ってしまう。
「それにしてもひどい文章ね……」
ざっと答案を読み終わった早百合が、紙を机にばら撒くと、頭を抱える。
「ええっ!?
高校の作文コンクールでは、いつも下ネタ満載で同級生を爆笑させ、必ずクラス代表に選ばれ、毎年特別賞を授与されてきた俺様の文才に対してなんてこと言うの!?」
「じゃかあしいわああぁぁ!」
後頭部に電気ポット並びに数冊の本が投げつけられる。
結構痛い。
「相手はあなたのお馬鹿友達じゃなくて、日本最高学府を卒業したエリート中のエリート、鉄門の鬼よ。
並大抵の筆力じゃ、歯牙にもかけられず、読んですらもらえない。
あなたにはまず、東大教養部の基礎演習テキスト、『知の技法』を貸してあげるから、論文作成に必要な文章能力を身につけなさい。
話はそれからよ」
「しょっぱなから手厳しいですね、先生……」
せっかくの力作解答をけなされて、軽くへこんだ俺だが、彼女の言うことももっともだと思い直し、電気ポットと共に、俺の限りある大事な頭脳を直撃した、「知の技法」、「知の倫理」、「知のモラル」の三冊を受け取った。
確かに論文やレポートの文章は、作文とは違い、目的や方法、結果、考察などを、理論的に筋道立てて順序良く書く、独特のスタイルが必須である。
今の段階でそれを習得することは、テストの答案のみならず、今後の人生においても必ずや役に立つはずだ。
「そして、相手がどんな文章を書き、何をテーマとして研究しているのかを調べることも大事よ。
ネットのPubMedや、医中誌などのサイトで、教授の名前入りの論文は、全て検索して熟読しなさい。
彼が執筆に関わった教科書類も同様に。
彼の書き記したものは、どんな細かいものでも暗記するまで読み込みなさい。
敵を知らずして勝利はないわよ」
「なるへそ……」
「あと、問題文から察するに、ノロウイルスとか、最近のウイルス学に関する問題がちらほら見受けられるわね。
これからは新聞やテレビのニュースを要チェックし、トピックスを抑えなさい」
彼女の理路整然とした演説を拝聴するうちに、俺は、目の前の黒洞々たる闇が、たちどころに雲散霧消していく様を幻視した。
この数年間、追試地獄で一人もがき苦しんできたのが馬鹿らしくなったほどで、彼女にもっと早く会って、教えを賜っていればよかったと、つくづく悔やんだ。
「それにしても、この試験問題を読んだだけで、よくそれだけのアドバイスが出来るな。
一体誰にそんなやり方を教わったんだい?」
俺は、窓から吹き込む夜風に、亜麻色の髪をなびかせながら小さくあくびをしている早百合先生にお尋ねした。
「最初は両親からだった。
その後はひたすら独学よ。
学校なんかでは大したことを学べなかったし、行く気もしなかった。
私は、自分の興味のある事を、自分で少しずつ調べて、学んで行っただけなの」
彼女は眠気をかみ殺したような苦い表情をしながらも、答えてくれた。
やはりまだ夜更かしは微妙なお年頃なのだろう。
俺は少しばかり微笑ましくなった。