第三十九話 真夏の魔境
一時間近くも掛けて、例のファミレスで冷麺をすすり、汁の一滴まで飲み干した俺は、重い腹と心を抱えたまま、職場への帰路に就いた。
暑さは正午を回り一段と強くなったようで、せっかく補給した水分が、じわじわと失われていくのが実感できる。
さすがにこの時間帯は、温泉街のポン引きどもも姿を潜め、街は人影も少ないが、そこここにあるソープやストリップ、大人の玩具屋のどぎついエロ看板が、白昼の下に不健全なイラストや文字をさらけ出し、脳まで茹りそうだ。
みぃーんみーんと鳴り響く蝉の声だけが俺の心を妙に慰めてくれた。
皆は、暑苦しさが増すというが、俺にとっては、ここまで漏れ聞こえてくるハワイアンを遮断してくれる貴重なマスキング音だ。
儚い命の大合唱が、俺にも生命の尊さを実感させてくれる。
このまま蝉のように1週間くらいでこの世とおさらば出来たらな、と、俺の古い友達の希死念慮が誘惑してくる。
あれほど俺が注意深く接触を回避してきたのに、先程のようなアンブッシュは酷すぎる。
よりにもよってこんな憂き目に会うとは、俺は前世で大量殺人でも犯したんですか?
そんなことをつらつらと、ファミレスで、まずくて硬い麺をついばみながら、先程もずっと考えていた。
週刊モーニングを何回も読み返し、無駄に時間を過ごした。
なんかもう何をするのも嫌になって、気持ちを落ち着けようと深呼吸しても、お湯のような熱気が肺を焦がしそうになるだけで、寂れた場末の風俗街は性病を蔓延させるような爛れた雰囲気を漂わせ、俺は、春の桜と同様、真夏の青空も人を殺しかねない魔境だと悟った。
などとダウナーな気分に陥りながらも、休憩時間ギリギリで、我が愛しの職場に帰還すると、意外と聡子は吉村のクソバカへたれ野郎といちゃいちゃなんぞしておらず、むしろ早百合嬢といちゃいちゃしていたのに度肝を抜かれた。
いや、いちゃいちゃというよりは、キャッキャウフフと楽しげに遊んでいるといった趣だが。
彼女たちと明星を含めた三人は、波打ち際で、どこから取り出したのかビーチボールを投げ合って戯れていた。
明星のもやしなんぞは、いつの間にか黒い海パン一丁となり、例のペンダントを薄い胸板にぶら下げ、貧弱な肉体をさらけ出している。
一人だけ見苦しいが、以前松本が、「もやしは、『萌やす』が語源だという説があります」と薀蓄を垂れていたので、あれも一種の萌えなのかもしれん。
心のバランスをある程度取り戻した俺は、さて吉村はと見れば、監視室でつまらなさそうに番をしており、監視台ではマッチョなライフセイバーがお肌を焼いていた。
確かに今はバイト中だし、奴の休憩時間は先程終了しているから、混ざってキャッキャウフフしようものなら、マッチョの鉄拳が飛んでくるだろう。
ざまあみやがれイッヒッヒ。
それにしても、短時間で、あの女性二人がここまで打ち解けるとは、俺の想像をはるかに上回っていた。
これが噂の釣り橋効果ってやつ?
とにかく俺は、休憩後は監視台からスタートなので、焼けた炭のような砂を足元に踏みしめながら、じゃりじゃりと海の方向へと前進した。
もちろん、同時に海辺のビーチバレー集団にも接近していくわけだ。
「あっ、せんぱーい、お帰りですかー?」
こちらを向いていた聡子が、真っ先に気付いたようだ。
スイカ模様のボールを明星のみぞおちにアタックすると、俺に笑いかけてくる。
うっ、可愛い。
アイドルのプロモーションビデオもかくやという、悩殺ボディとあどけない笑顔は、俺のいろんなものを刺激し、悶絶する。
ちなみに俺の傍らでは、当たり所が悪かった明星が絶賛悶絶中だ。
そもそも彼女は、いったいいつまで俺のことを「先輩」と呼んでくれるのだ。
先に上の学年になったやからには、俺のことをあからさまに呼び捨てにする高慢ちきな勘違い野郎も少なくないのに、未だに「先輩」扱いしてくれるだけでも、俺は涙が出そうになる。
それにしてもどうしてあそこまで育ったのだ、あのけしからん胸、腰、太ももは。
ああ、舐め回したい、犯したい。
いかんいかんいかん!
落ち着け、素数を数えろ!
そもそも俺は彼女に謝らなきゃいけないんだぁ!
ってこんなシチュエーションじゃ無理無理無理!
「何黙ってるのよ、このおっぱい星人が」
早百合が、失語症になりかけた俺に冷たく突っ込んだため、俺は「お、おう」と、片手を挙げて、爽やかに答えた。