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第三十八話 アモーレ

「1910年代初期、とある工場で働いていた工員たちが、酒に弱くなるということが立て続けに起こったの」


 急に彼女がわけの分からん昔話を始める。


 俺はぽかんとしながら、わらわらと駆けつけてくる救急隊員たちを眺めつつも、耳をそばだてた。


「その工場で生産されていた物質に含まれるシアナマイドは、アルコール代謝を促進する、アセトアルデヒド脱水素酵素の働きを阻害するものだった。


 だからこれを吸引した者は、少量の飲酒でも、まるでお酒が飲めない人みたいに、たちどころに悪酔いし、急性アルコール中毒様の症状を起こしたの」


「わかった、その工場は、肥料工場だったわけね!」


 今まで黙って聞いていた聡子が、我慢できなくなったのか、口を挟んでくる。


 ここでようやく俺も、現在も鼻先にこびりついている悪臭の正体に気付いた。


 これぞ毎朝夕に嗅ぎ慣れている、ゴミ捨て場の側から流れてくるアロマだった。


「ご明察。


 石灰窒素に含まれているカルシウム・シアナミドからシアナマイドが分離され、抗酒剤として、アルコール依存症の患者たちに使われるようになった。


 薬の歴史っていうのはこんな風に偶然の発見によるものが多く、けっこう面白いわよ。


 あなたたちにからんでいるあいつらが缶ビールを手にしていたので、それに気付いた私は、そこでくたばっている明星に急いで隅の納屋から肥料を一掴み持って来させ、あの金髪男に投げつけたの」


「そうか、俺は、酒を一滴も飲んでいなかったからなんともなかったわけだが、あいつはがばがばウワバミ状態だったから、ああなったってわけか」


 俺は、今まさに目の前を担架に載せられ去ってゆく金太を見送り、溜息をついた。


 残りの連中も、最早宴会どころではなく、慌てて撤収作業を行い、彼の後を追いかけていく。


「それにしても、凄い偶然が重なる日だな。


 俺が難癖付けられているところに、雪嵐が来てくれて、そこに更に、早百合ちゃんまでが来るなんて。


 ありがとう、本当に助かったよ」


 俺は、今度こそ一難去ったことにほっとしたせいか、ちょっと浮かれて早百合はおろか、聡子にも陽気に礼を言った。


 この前の図書館とは違い、普通に言葉が出てくる。


 開放的な真夏の陽光の下だからだろうか。


「あら、偶然なんかじゃないわよ。


 このビキニの彼女は、あなたに声をかけようと、小屋の近くをうろうろしていたんですからね。


 そこへたまたまあんな事件が勃発したわけよ」


 早百合がさらっと聞き捨てならない発言をぶちかます。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと何言うのよー!」


 聡子が顔面を紅潮させ、手をばたばた振って抗議する。


「あ、あ、あたしはその、ここで働いているっていう、知り合いの様子を見に来ただけですー!」


 はぁ、さいですか。


「お嬢様だって、他人のことなんか言えないじゃないですか、ずっと海水浴場の付近を、車でうろうろ走らせたくせに、なかなか顔を出そうとされないんだから。


 こんなきっかけでもなければ、小生は警察に不審尋問されるところでしたよ」


 いつの間にやら復活した明星までもが、砂浜に腰を下ろしながら、会話に割り込んでくる。


「みょ、みょ、みょ、明星のくせに何言うのよー! 


 たまったまの偶然に決まっているでしょーが! 


 最近流行のマジックリアリズムとやらよ! いえ、シンクロシニティってやつ?」


 今度は早百合が頬を赤らめる番だった。


「お嬢様ったら、君のバイトスケジュールまですっかり把握していましてね、君が出勤の日は、必ずこのあたりまで運転させるんですよ。


 だのにいざ海まで行こうとすると恥ずかしがっちゃいましてね」


 明星が、じたばた暴れる早百合を尻目に、俺の耳元でそんな極秘個人情報を漏らしやがる。


 なるほど、たいした偶然でもなかったらしい。


 だが、これってどういうことだ?


「だって、あなたが、たまには様子を見に来いって言ったじゃないの!」


 早百合が妙に可愛い声で俺に怒鳴りつける。


 ああ、そういやそんなことも言ったっけ。


 バイト疲れですっかり忘却の彼方でしたよ。


 やっぱ若年性アルツハイマーになっちまったかな?


「はは、ごめんごめん、忘れてたよ。


 よく来てくれたな」


「んもぅ!」


「あ~ら、すっかり仲のよろしいことですこと」


 何故か、聡子が冷え切った氷点下の視線を俺に浴びせている。


 俺は懐かしい感覚を思い出し、衝動的に土下座したくなってきた。


 これぞヘロディアス王妃の嫉妬妄想に他ならない。


 あれ、でも、俺たちって、もう……。


「そんな幼女に手を出しちゃ駄目でしょー、先輩! 


 最近同意の下でも法律はうるさいんですからね!」


「ご、誤解だぁ! 


 俺はペドフィリアじゃねぇ!」


 そういう意味だったのかと、俺はやや残念な気持ちになりながらも、雄叫びを上げた。


「そうだねー、先輩はおっぱい星人だったもんねー、ハハッ」


 さすが俺の性癖に詳しい聡子は、幼女に対しては、悋気もあまり持続しなかったのか、すぐにそう返すと、胸をそらして陽気に笑った。


 彼女の豊満な二つのふくらみが、縞柄のビキニの下で揺れている……ん?


 その時俺は、先日図書館で感じた、以前と異なる違和感の正体がはっきりくっきりと分かった。


 胸が。


 気の毒なくらい無かった彼女の胸が。


「おっきくなっとるばい!」


「えっ?」


「いえ、なんでもございません」


 思わずよく分からん方言で叫んだ俺は、皆に怪訝な面持ちで見られたが、丁寧にごまかした。


 豊胸手術か? 


 だが数多のAV鑑賞で鍛えたこの両眼は、NOと言っている。


 あくまで自然なふくらみで、手術の痕跡も、見た目には無さそうだ。


 なにより奇妙なことには、胸以外にもお尻や太ももにも肉がついて、全体的に女らしい体型になっていった。


 ここまで手術でやるのは、ちょっと難し過ぎるだろう。


 謎が謎を呼び、鑑賞のし過ぎで、マイサンは海水パンツを突き破らんばかりになってきたので、俺は慌てて上半身のTシャツをおもむろに引っ張った。


「ちょっと、そんなにじろじろ見ないで下さいよー」


 さすがに彼女が、俺の熱視線を感知し、両手で胸を覆い隠す。


「勤務中に一体何をやっとんじゃ、おのれは」


 今度は早百合が露骨に不機嫌な顔をする。


 俺は何がなんだかわからなくなってきた。


 急にハーレム漫画の主人公にでも昇格したような、この扱いはなんなんですか! 


 俺にはちょっと手に余る事態です。


 それとも、これが伝説のモテ期ってやつなのでしょうか? 


 っていうか、この調子で行けば、聡子とよりを戻して、S子2号ちゃんに別れを……。


「錦織さーん! 大丈夫でしたかー!?」


 唐突に乱入してきた呼び声が、俺の妄想を破壊した。


 苦々しい顔で俺が振り向くと、今まで何をやっていたのか、ようやく吉村の奴が、監視台から降りて、こちらへ向かってくるところだった。


「雪嵐さーん、約束どおり、来てくれたんですねー!」


 その一言は、俺の思考を一瞬停止させ、そして全てを悟らせた。


 俺がこの4ヶ月間、必死に見ないようにしていたもの……すなわち忌まわしいカップルの片割れが、彼だったのだ。


「とんだピエロね……」


 背後で、早百合の哀愁に満ちた囁き声がするも、無視して俺は踵を返し、「今から昼飯に行ってくる! じゃぁな!」とせめて男らしく言い放ち、その場を逃げ去った。


 ただ、ひたすら暑かった。


 俺は炎天下のもと、ただ一言、こう叫んだ。


「アモーレ!」

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