第三十七話 早百合の魔法
「くさっ!」
さっき俺が七転八倒阿鼻叫喚の苦しみを受けた悪臭が、再び鼻腔を焼き、その奥座敷に鎮座する嗅細胞を蹂躙する。
なんの因果で二度までもこんな目に合わされるのだ!
のた打ち回る俺の面前で、彼女はその蛮行にも関わらず、喜色満面のご様子で、涼しげに微笑んでいる。
新手の拷問に目覚めたのだろうか?
しかしこの悪魔的スメル、確か、どこかで……。
「あにふんだよ!」
ともかく俺は自己主張してみた。
「ちょっと手が汚れたから、近くのもので拭かせてもらっただけよ。
ごめんあそばせ」
「俺の顔面はお手拭タオルじゃねぇ!」
「あら、あなた達を助けるために、文字通り手を汚したのに、ずいぶんなご挨拶ね。
もう、今日は耳鳴りもひどいっていうのに」
「そ、それは確かに感謝しているけれど、一時的におっぱらっただけで、結局、まだ飲み会やってるじゃねーか!」
俺は彼女の魔の手を引き剥がすと、悪の巣窟と化した休憩所を指差した。
もはや缶ビールどころか、日本酒やチューハイや謎のどぶろくまで取り出した酔っ払いどもが、飲めや歌えやの大騒ぎで、酒池肉林といっても過言ではない。
調子に乗った女性従業員の方が、エアセックスもかくやという、謎のテクニックをご披露しようと、今にもバタフライパンツを脱ぎかかっており、海水浴場の風紀を乱しまくっている。
俺はどんなに女に飢えても、生涯ソープなどという汚らわしいところには足を踏み入れまいと、固くS子2号ちゃんに誓った。
ちなみに俺は童貞保存会会長の肩書きも持っており、今や数少なくなった天然記念物的生物の保護に努めている。
誰にも感謝されないが。
「あなたは相変わらず、何も分かっていないわね。
一体医学部で何を学んだの?」
大衆の面前で、外見小学生の15歳の少女に、凄まじい上から目線で見下ろされる。
俺は危うく何かの性癖に目覚めるかと思った。
「授業中、如何に有意義に時間を潰すかしか学んでねぇよ!
っていうかどういうことだ?
さっきなんかしたのかよ?」
「ま、黙って見物していなさい。
じきに面白いことになるわよ」
「えっ?」
彼女の予言めいた謎の発言は、俺の知的好奇心に火をつけた。
「ぐぉっ!?」
その時、缶ビール片手にあれほど陽気にどんちゃん騒いでいた、先程の金髪改めポン引き改めチンピラ改め幼女恐喝犯野郎が、突如盛大に、ゴザにゲロをぶちまけたかと思うと、よたよたとひざまづいた。
顔面は茹蛸のように真っ赤に染まり、荒い息を吐いてあえいでいる。
「ど、どうしたんですか、金太さん!?」
金髪よりも若干若い男が、心配そうに彼を覗き込む。
それにしても金太とは、なんて名は体を表す名前だ。
いや、むしろ、だから金髪に染めたのか?
俺が新たな謎に悩んでいるうちにも、金太は嘔吐を繰り返し、辺りは吐瀉物の酸っぱそうな匂いが漂ってきた。
「急性アルコール中毒だ!
誰か救急車を呼べ!」
一座の中心にいる、ごつい顔をしたスキンヘッドの男が同間声を上げる。
「え、まさか、あんなに酒に強い金太さんが、そんなことありえませんよ!」
「だけど現実に吐いてるだろうが!
おまけに顔も赤いしぐでんぐでんだぞ!
だいぶ飲んできたんじゃねーのか?」
「い……いや、俺は、今日は来る前に1本飲んできただけっすよ……」
様々な怒号が飛び交う中、騒ぎの中心の金太が、虫の息で途切れ途切れに言葉を発する。
「おかしい……こんな馬鹿な……」
奴は、呂律の回らぬ口を無理矢理回らせながら、焦点の合わない眼差しを、あからさまに俺たちに対してぶつけていた。
いや、正確には早百合に対して。
「おい……クソガキ……てめえの仕業か?」
あたかもダイイングメッセージのように呟くと、それきりがくんと小麦畑のような頭を後方にのけぞり、彼は動きを停止した。
「金太さあああああん!」
チンピラ2号(仮称)の絶叫が、もくもくと聳え立つ入道雲に届かんばかりに響き渡る。
それに呼応するかのように、どこか遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
「ね、私の言ったとおりだったでしょ?
海より深いこの大恩は、死ぬまで忘れないことね」
全てを見透かすような瞳で愚かな金太を一瞥し、早百合はアルカイックスマイルを浮かべる。
「一体全体どんな魔法を使ったんだ?
さっき投げた砂に、毒でも仕込んであったのか?」
「あら、毒なんか投げたら、あなただって今頃倒れているでしょう?
お馬鹿さんね」
女王様が、俺の疑問にあきれたように、かつ優しく答える。
悔しいが、確かに仰るとおり、嘔吐、めまい、ふらつき、意識障害その他の症状は、俺には一切現れていない。
鼻の奥だけは、練りからしを突っ込まれたみたいにジンジンするが。
「知りたい?」
翡翠色の瞳を細め、薄く笑みを浮かべる早百合に対し、俺は馬鹿みたいに、こくんと頷いた。