第三十六話 盟主
「こんにちは、先輩。奇遇ですねー」
紛れもなく、雪嵐聡子その人が、素足で砂浜を踏みしめ、こちらを見ていた。
彼女の笑みは、このうだるような暑さの中でも爽やかに感じられ、ストライブブルーのビキニが、更に涼しさを強調していた。
腰に巻きつけた紫のパレオが潮風になびき、太もものラインが見え隠れする。
「な、なんでここに?」
「そんなことは今はいいじゃないですかー、それより」
彼女は威風堂々と金髪男に向き直ると、びしっと右手の人差し指を突きつけた。
「さっきから聞いていれば、無茶苦茶なことばっかり言ってますね!」
「なんじゃこのアマ!
いきなり横から現れて何をいちゃんもんつけとんのや!」
ポン引きの目が三角形に釣りあがる。ああ恐ろしい。
「去年OKだったからって、今年駄目なものは駄目に決まってるじゃないですか!
それに町内会費が海水浴場と何の関係がありますか?
周りのお客さんの迷惑も考えず、喚きたてるし、まさか脳みそもキンキラキンに染まっているんじゃないでしょうねー?」
「ぐっ」
ポン引きが何も言い返せず、押し黙る。
そうなのだ、雪嵐は口が達者で、彼女を言い負かすのは至難の業なのだ。
俺は経験上、よく知っている。
その腕前は、たとえこちらが正しくても、つい謝ってしまいそうになり、やってもいない悪事まで白状してしまいそうなほど。
「じゃかあしい!
ドスメロが、黙りやがれ!」
とうとうぶち切れたポン引き改めチンピラが、割り箸を振りかざすと、喚きながら彼女に襲い掛からんとする。
これにはさすがの「アモーレ」の一同も慌てふためき、彼を押し留めようとするも、とっさのことで、誰も捕まえることが出来なかった。
俺も彼女のそばまでかけよるも、今一歩間に合いそうにない。
くそ、やっぱ真面目に部活に出ておくんだった!
そのときどこからか飛来した砂つぶてが、暴走男の顔面を直撃し、周囲にいた俺も砂埃に巻き込まれる。
なんだこれ、すごく臭いぞ。
「お姉ちゃんをいじめないで!」
これまたどこぞで聞いたことのある女の子の声が聞こえるも、俺はしばらく目を開けることが出来なかった。
玉葱のような刺激物が涙腺をビシバシ刺激し、涙さえ出てくる。
苦しい、ただただ苦しかった。
「なんじゃぁこのガキャ!
ゲホッゲホッ」
チンピラがむせ込みながらも怒鳴っているようだ。
あくまで女性従業員たちの前で、威勢のいいところを見せたいのだろうか。
俺が無理矢理薄目を開けると、なんと見慣れた白いワンピースが、にじむ視界の先で陽光を反射していた。
「おじちゃん、怖い!」
いつもと口調は百八十度異なるが、9、10歳程度にしか見えない幼いその姿は、紛れもなく動物実験室の君主、蛇池早百合その人に他ならなかった。
今日はお客様感謝デーかなんかですか?
ぺっぺっと口腔内で攪拌し続ける砂らしきものを吐き出しながらも、なおも少女とにらみ合いを続けるチンピラ改め幼女恐喝犯だったが、ギャラリーの、「子供相手に何マジになってんだよ」、「今のは明らかにお前が悪いよ」、「それより早くお肉焼いてよ」という批判的な意見に、次第に押され気味となり、「ケッ、クソガキが!」と捨て台詞を残し、宴もたけなわの休憩所内部へと引き返していった。
俺は緊張感が緩んだせいか、どっと疲れが押しよせ、その場から動けなかった。
「「大丈夫?」」
期せずして女性二人の声がハモる。
俺の元に駆けつけた聡子と早百合は、お互いを認識し、無言で見つめあった。
どちらも、お互いが何者なのか、俺とどういう関係なのかを探り合っているような、そんな視線だった。
「お……お嬢様、ご、ご無事でしたか?」
足元の砂浜からおぼろげに響くかすれ声に、沈黙は破られた。
ふと地面を見ると、どこかで見覚えのある、ひょろ長いロン毛男が、この暑いのに黒いスーツ姿で倒れ付している。
今の騒ぎで、誰も目に入っていなかったようだ。
かく言う俺も、声がしなければ、思わず踏みつけるところだった。
咲き誇る二輪の花の前では、悪いけれど浜辺に転がったパンパース以下の存在でしかなかった。
「明星……さん?」
「あ、忘れてた。
明星、ご苦労だったわね」
小さな暴君は、従者にねぎらいの言葉をかけてやるも、育ちすぎたもやしの如き彼は、砂浜に突っ伏したまま、なかなか動こうとしない。
心底疲れきっているようだ。
「明星さんって、あの、寄生虫学の助手の?」
俺と違って記憶力には定評のある聡子が、驚きの声を上げる。
そういえば、彼女は俺と同じ陸上部であるから、部活の顧問のおっぱい教授と繋がりがあるのをすっかり失念していた。
このもやしのことも、酒の席などで聞いていたのかもしれん。
「授業中に後ろでよくスライド係をしてますよねー?」
なんだ、そうだったのか。
俺はいつも爆睡していたから気付かなかった。
「さすが雪嵐さん、よくご存知ね」
何故か早百合が偉そうに彼女を褒め称える。
それより誰か、明星を助けてやれよ。俺は嫌だけど。
「あたしのことを知ってるの、お嬢ちゃん?
あなた、一体……」
「私は蛇池早百合。
蛇池教授の娘にして、こいつら2匹の飼い主よ。
雲大生のことは全て把握しているわ」
怪訝そうな表情の聡子に対し、我等が盟主、早百合嬢は、可憐な横顔に壮絶な笑みを浮かべ、蝋細工のように華奢な右腕を差し出した。
握手のつもりだろうか?
てか、飼い主って何様!?
と思う間も無く、いきなり彼女は矛先を変えると、俺の顔面にその右手でアイアンクローをかました。