第三十二話 中野恵の不運 その2
「うう……」
意識を取り戻した中野恵は激痛のあまり、うめき声を上げるも、起き上がることは出来なかった。
打ち身がひどいのか、身体はまったく動かず、指一本思い通りにならなかった。
特に首筋の辺りに何かに切りつけられたかのような焼けつくような痛みを感じる。
血管の拍動のたびに傷口がズキズキ疼いているのが分かるほどだった。
血も流れ出ているのだろう、肩甲骨の辺りが水に濡れたように冷たい。
背中に固い地面が当たる感触から、自分が仰向けに倒れていることのみ分かったが、まぶたすら開けることができなかった。
転げ落ちたときに服でも脱げたのだろうか、やけに胸元がすうすうする。
どうやら自慢の大きな胸が、外気にさらされているようだ。
だが、人っ子一人いないこんな山奥では、恥ずかしいも何もなかった。
とにかく一刻も早く起き上がりたかった。
確かに自殺するために山にわざわざ山に分け入ったのだが、まったく動けないまま放置状態で徐々に弱って命を落とすなど、それこそ死ぬより恐ろしく、嫌だった。
だが助けを呼ぼうにも、力が入らず、携帯すら持っておらず、どうすることもできなかった。
「ひっ」
ふと、彼女は胸に、空気とは明らかに違う何かが触れたのを感じ、怖気だった。
何者かが、自分の右乳首を舐め回している。
男性経験は少ない彼女だったが、それくらいの感覚は自分でも分かった。
こんな山奥に、強姦魔が潜んでいたのだろうか。
そして後ろから無防備な彼女を襲い、今まさに犯そうというのか?
「た、助け……」
彼女は死のうとしていたことすら一瞬忘れ、か細い声を発した。
乳首を執拗に舐める、謎の舌の動きが一瞬止まった。
「ぎええ!」
次の瞬間、彼女はかつてない痛みに絶叫していた。
何者かが、彼女の乳首に噛みつくと、勢いよく引き千切ったのだ。
ごくんという生々しい嚥下の音を聞き、ショックのあまり、彼女の意識は再び闇に呑まれた。
あれからどれくらいの時間が流れたのだろうか。
最早彼女には、何も分からなかった。
まぶたを開けようにも、何者かはまぶたごと彼女の眼球に食らいつき、両眼とも速やかに胃袋に流し込んだ。
胸の方は、乳首はおろか、お椀の如き両の乳房とも奴に食いつくされた。
今はどうやら太股の辺りに噛り付いているようだ。
多分周囲は猟奇殺人現場もかくやというほどの夥しい血が流れ、下草を朱色に染めているのだろう。
身体が凍えるように寒いのは、夜が近付いているばかりではあるまい。
既に痛みも感じにくくなっていた。
予定とはまったく違う、凄まじい死に様となったが、仕方ないのかもしれないと、彼女は薄れ行く意識の中で思った。
「聡子……」
ふと、人懐こい同郷の後輩の姿が走馬灯のように浮かび上がる。
先輩らしいことを何一つしてやれなかったことだけが、心残りだった。
いや、たった一つしてあげたことはあるが……。
やがて、彼女・中野恵の生命活動の灯は緩やかに燃え尽き、哀れな魂は永久のまどろみの中へと溶けていき、二度と目覚めることはなかった。