第三話 絶望の追試 その2
俺は他の問題から先に済ませようかと考え、視線を用紙の下方にずらすも、更なる混沌が待っているだけだった。
reassortmentとかrecombinationって一体何よ!?
明らかに見通しが甘かった。
さすがの俺も、まったく勉強せずに挑んだわけではない。
珍しく、三日間も頑張った。
というか、それが限界だった。
理解不能なところが多すぎて、どこまでやっていいのか皆目分からなかった。
ノートもかなりの欠落品であり、そもそも貸してくれそうな優秀なお友達なぞ、留年歴2回の俺には皆無だった。
せっぱつまって前日にはボトムズ全員を招集するも、予想通り誰もまともなノートを持っていなかった。
少しは勉強しようとしても、「そもそもgeneとgenomってどう違うんだよ。訳したらどっちも遺伝子じゃねーか!」と田原が叫ぶなどしてすぐに行き詰まり、まったく前に進まない。
マニアックな松本にいたっては、「母子間での感染を垂直感染といい、他人間での感染を水平感染というって書いてありますけど、じゃぁ近親相姦で感染したらどっちなんですか!?」とわけの分からない質問をしてくる。
「ま、所詮ノート持ち込み可なんだし、もう少し気楽にいこうか」と、いつの間にやらだらけムードになって、おでん鍋をつついて酒を飲んでお開きという、ぐだぐだな結果に終わった。
いつものことだけど。
しかしこのままではやばい。
時間は刻一刻と過ぎて行く。
もうかれこれ15分は経過しただろうか。
三時間もある長丁場の試験とはいえ、いくらなんでもそろそろ始動しないと後が怖い。
周囲からはようやくかさこそと手元を動かす気配が漂い始め、焦燥感を煽ってくる。
とにかく何か書かねば。
再び一問目に視線を戻す。
HBVはなんとか分かったが、その次のenveplopeからして意味不明だ。
えーっと、確かパソコンの5インチフロッピーの外側の紙ケースをエンベロープって言ったっけか。
するとこれはケースって意味か?
くそっ、ノートに索引でも付けるんだった。
パラパラ捲っても見つからない。
そのとき、山が動いた。
田原の震顫が止まったかと思うと、ノートを引きちぎり、たちどころに何かを書き始め、机の下からそっと俺に手渡した。
俺は試験官がぼけっと窓の外を眺めているのを確認した後で、そーっと紙をノートの間に挟み、そのミミズののたくったような悪筆を眺めた。
「問1:一部のウイルスはエンベロープって膜に囲まれ、細胞に感染するとき役立っているんだ。
でもこの膜は石鹸などで破壊される。
だから手洗いは感染予防になるってわけ。
そういうことを適当に書け!
次これ松本にも回せ!
内藤の馬鹿は寝ているからやめとけ!
ばれる可能性がある」
おお、さすが我等がリーダー、いや、メシアと呼んでもいい。
俺は精一杯愛情のこもったウインクを右側に送ると、鉛筆を構え、「HBV has an enveplope……」と怪しげな英文を書き始めた。
英語なんてもう何年もやっていないので適当だが、それはさすがに大目に見てもらえるだろう。
更に前方のフケのかかった背中をど突き、打ち合わせどおり合図を送ると、のろのろと持って来た彼の後ろ手に、紙切れを突っ込む。
とりあえず最初の難関はクリアーした。
内藤には悪いがこれも戦いだ。
そもそもこの最終試験でも、毎年30人近くが叩き落される。
寝ていて通るほど楽な試験ではないのだ。
そうだ、俺は今回ばかりは絶対落ちるわけにはいかない。
何しろ落第したら、雪嵐聡子と同じ学年になってしまう。
それだけは避けねばならない!
しかし俺、否、俺たちは誰も気付いていなかった。
ウイルス学が想像以上の怪物だということに。