第二十九話 普通救命士講習
六月。
ただでさえ曇り空の多いこの地域の空が、更に鉛色と化し、うつ病患者数さえ多くなるといわれる梅雨の季節。
俺は、古くからこの地に伝わる、「弁当忘れても、傘忘れるな」という教えの通り、コンビニで買った五百円傘を握り締めて、朝から愛機「エロス丸3号機」を駆りながら、「天気予報士は外れても首にならないから、お気楽な商売だな」と勝手な物思いにふけっていた。
民家の青いアジサイの植え込みを過ぎると、目の前に、古ぼけたコンクリートの二階建ての建物が見えてくる。
あれが本日の目的地の保健所だ。
今日から三日間、ここで例の普通救命士の講習を受けねばならない。
俺の気持ちは今日の天気以上に憂鬱だった。
大体、何が悲しくて、せっかくの休日にわざわざくだらない講義を聞かねばならないのか、ただでさえ人の倍は受けているというのに。
だが、金のため、もとい人命救助のためであるならば、仕方が無い。
俺は悶々としながらも、敷地内に足を踏み入れた。
途端に、施設の一角から、むせ返るほど濃厚な獣の臭いが漂い、鼻腔をくすぐる。
俺は即座に保健所の重要業務を思い出した。
捕獲された野良犬や野良猫、不要になったペットなどは、保健所内の動物愛護センターという部署で、愛護という名前とは真逆の処置、つまりは殺処分を受ける。
以前は研究施設の実験では、こういった不幸な動物たちが使われていたともいう。
最近、畜生たちとやけに縁深くなった俺は、珍しく敬虔な気持ちがふつふつと湧いてきて、知らず知らずのうちに、臭いのする方角に両手を合わせていた。
安らかに眠れよ。
「いかんいかん、俺らしくもない」
われに帰った俺は、誰かに見られていなかったかと、急に気恥ずかしくなり、不審げに辺りをきょろきょろ見回すも、特に誰もいなかった。
そうだ、いついかなる場所でも気を抜いてはいかん。
人間用心が肝心。
それに、こういう未知の場でこそ、運命の出会いがあるやもしれん。
もう過ぎ去った過去をぐじぐじと思い悩むのはやめにして、パーッと新しいアバンチュールとやらに飛び込んでいってもいいじゃない。
だって夏なんだもん。
いや~ん、まいっちんぐ。
などと浮かれた妄想にふけりながら駐輪場に「エロス丸3号機」を停め、鼻歌混じりで玄関をくぐり、建物奥の講義室のドアを開けたとき、俺は現実という名の魔物に打ちのめされることと相成った。
そこはどう贔屓目に見ても、養護老人ホームの一室となんら変わりは無かった。
むしろお前が救急される側じゃないかと突っ込みたくなる老婆たちが、佃煮にするほどわんさか蠢いていた。
部屋の湿度が半端じゃない。
「うちの連れも年でねー、最近夜中にトイレに行くときとか、しょっちゅう転んじゃうのよ。
だから、私もちょっと話聞いといた方がいいんじゃないかと思ってねー」
「あら、うちもそうなのよー」
「おたくも今のうちに介護保険申請した方がいいわよ。
最近どんどん削られちゃってるしねー」
「あそこの接骨院、マッサージうまいわよー」
デンデラを彷彿とさせる老女の集団が、甲高い声で井戸端会議を繰り広げながら、持ってきた羊羹を皆で食べたり、老眼鏡をかけて教本に顔をこすり付けるようにして読んだりと、混沌の巷と化している。
なるほど、確かにこんな市民講座もどきに、妙齢の女性が訪れるわけも無い。
そんな暇があったら、旨い物を食べに行ったり、ショッピングに出かけているだろう。
俺は加齢臭漂う講義室の一番前にふてくされて座り、ヤングジャンプを鞄から取り出して読みふけることとした。
やってられるか!
待つこと10分、開始時間の9時からやや遅れて、ようやく講師が登場した。
「ほーい皆さん、お待たせしました。
後藤と申しま……って、あれ?」
「げっ、先輩!?」
そのよれよれの白衣を纏った垂れ目の角刈り男と俺は、同時に驚愕の声を上げた。
医療関係者が講義に来るだろうとは予想していたが、まさか後藤先輩だとは、想像だにしていなかった。
「なんでこんなとこにいるんですか!?」
「それはわしの台詞じゃよ。
わしは医局の教授から頼まれて、週に一回ここに講師に来ておる。
まったく、院生を便利扱いしおってからに……」
三国志の黄忠をリスペクトしている先輩は、独特の爺言葉で文句を垂れた。
彼の三国志フリークは筋金入りで、卒業式の謝恩会の後、酔って民家に誤って入り、突き出された警察で、「わしは中原の覇者になるんじゃ~、若い者には負けんぞ~っ」と警官相手に管を巻いたという伝説があるほどだ。
医師になる前でよかったね。
「おっと、無駄話をしている場合ではない。
それじゃ、始めるぞ」
時計を気にしてか、急にまじめな顔つきに変わると、白衣のポケットから、なんと関羽の人形の形をしたUSBメモリを取り出すと、ノートパソコンに差し込み、プロジェクターを起動させる。
さすがの俺も、ヤングジャンプを鞄にしまうと、代わりに酒精綿を取り出した。




